もう一度謳うぼくたちの歌

プロローグ『艦墜つ朱き荒野に』


 残照というものは、どんな人間の心にも多少の差はあれ存在している郷愁を刺激するのか、酷く美しく感じられる。そして、残照――夕日が美しいのは何も地球に限ってのことではない。いや、場合によっては、二一世紀後半の技術革新と法整備の結果、ひどく清浄になってしまった地球よりも、他の天体で見る夕日のほうが美しいといってもあながち過言ではないだろう。

 事実、火星の夕日は酷く美しかった。

 夕日の美しさを決める最大の要因は、大気中に漂っている微細な粒子の多寡である。そういった点から考えると、昨今の地球で見る夕日よりも火星で見る夕日のほうが美しく見えるのも無理はない。下手をすれば産業革命以前よりも大気の澄んでいる地球と違って、火星の大気には、無数の微粒子が漂っている。確かに、テラフォーミングの結果、かつての砂と岩石に覆われた荒涼とした景観から、地球に勝るとも劣らない緑なす星へと変身した火星だが、それでもその地表の幾らかはいまだに生命体の活動をひどく難しいものとする死の風景が広がっている。そうした区画から舞い上がった微細な粉塵は、風に乗り、火星全土にあまねく広がる。前世紀以前の日本地区で時折観測された黄砂、その規模の大きなものだと考えてくれればいいかもしれない。

 そして、そうした砂よりもよほど多く大気中に漂っているのは、火星の大地を死の世界から生命の謳歌する楽園へと作り変え、いまもそれを継続しているテラフォーミング用のナノマシン群だろう。およそ一世紀ほど前に散布が開始され、太陽系第四惑星を人類の新たな版図とすべく活動をはじめた、顕微鏡を使わぬ限り肉眼で捉えることのできぬ微細な極小機械たちは、その本来の役割をなんの不足なく務めるかたわらで、製作者あるいは散布者たちが予想だにしなかった効力を発揮した。それが、この星の夕焼けの風景を極上のものにしてしまうということだ。

 ほんの一世紀ほど前までまったくの人跡未踏、手付かずの自然――もっとも砂と岩石だけの自然だが――に支配されていた火星で見ることができる光景というのは、入植者たちが作り出した機能性のみを追及するあまり、概観に美的なそれを感じることのできない――あるいは、そうしたものに興味を持つ者にとっては別かもしれないが――開発拠点基地群か、中途半端な、地球であればどうということのない自然と、いまだ岩石にまみれた姿を晒している荒涼たる風景だけであった。

 鉱物資源の採掘などといった価値に不足はないが、観光というビジネス資源という観点からするとはなはだ不足を感じてしまう光景ばかりだ。一番最初のそれは、確かにたいしたものなのだが、地球の大都市にいけばいくらでも拝むことが出来る。二番目も、同じだ。三番目のそれは、まぁ、物珍しいという点ではある程度の観光資源たりえるが、地球にも似たような光景をあえて保存している場所がある。北米行政区に存在するグランドキャニオンあたりがそれだ。荒涼たる死の風景が拝みたければ、なにも高い金を出し、片道で二ヶ月という時間を費やしてまで火星に行かずとも地球で事足りる。

 だが、地球で唯一拝めないものは、火星の夕日だろう。こればかりは地球で拝むことは出来ない。無数の観光資源を有する地球に唯一勝る火星の美点。緑の――あるいは赤い死の大地の地平線に地球より少しだけ小さい太陽が沈むさいに大気が燃え上がったのかと錯覚をおぼえてしまうほどの夕焼け。

 予想だにしなかったナノマシンたちのもたらした副産物。目に止まらぬほどの微細な彼らを日に一度おとずれる死の間際に放つ太陽の断末魔の叫びが照らし出し、それを反射。夕焼け本来の深く濃いオレンジ色の光と、それを反射して輝くナノマシンたちの黄金色の光が複雑に入り混じった夕焼けは、たしかに地球では拝むことの出来ない値千金の光景であった。

 大抵は無味乾燥とした火星の光景に文句ばかりつける地球から訪れた人々も、大気が燃え出し、それが段々と強まり、やがて絶頂を迎えたあとに醒めたような蒼から深い紫へと変化したのちに闇へと姿を変えるほんの数分間のダイナミックな光景に息を止めて食い入るように魅入られたあとで、深く溜息をつき、そして次の瞬間それを絶賛する。

 火星の夕日、あるいは夕焼けというものはそれほどまでに美しい。

 その日の夕焼けも、いつもと同じように、文句のつけようもないほどに美しいものだった。

 もっとも、大地から立ち昇る幾つもの無粋な黒煙を無視すれば、というただしがきがつくのだが。

 黒煙をあげているものは、艦艇、あるいは機動兵器――だったものだ。無数の黒煙は、無残に破壊されたそれらの残骸から朦朦と立ち昇っている。

 そうした艦艇や機動兵器の大半は旧木連――木星圏ガニメデ・カリスト・エウロパ及び他衛星小惑星国家間反地球共同体――と、地球連合統合平和維持軍のものだ。より詳しく述べるならば、それらの組織の中から、地球連合に叛旗を翻した〈火星の後継者〉と自称するクーデター集団に参加した者たちのもの、である。今日、この日から三ヶ月前に起こった、旧木連の指導者の一人であった草壁春樹元木連軍中将を首魁とする一党の叛乱に組した者たち。

 現行の人類文明、その科学技術をはるかに上回る古代火星人の残したテクノロジーを持って人類圏に覇を唱えようとした草壁春樹の決起は、一隻の戦艦によって潰えた。

 正確には、その戦艦――〈ナデシコC〉の艦長、ホシノ・ルリによって、だ。

 マシンチャイルドたるホシノ・ルリの能力とそれを十全に生かすナデシコ級戦艦の最終形というべき〈ナデシコC〉によるシステム掌握。それにより、火星に陣取っていた〈火星の後継者〉の手勢は瞬時にして無力化されたのだった。

 そして今、その〈火星の後継者〉の残党が率いていた艦艇群の過半が、火星の大地に骸を晒し、それに乗り込んでいた者たちの奥都城と化している。

 火星の大地に落ちる夕日に照らされ、幾つもの長い影を作り出している墓標となっているのは〈火星の後継者〉の艦艇だけではなかった。よく見れば、それらとは異質な印象を受けるものを見つけることが出来た。

 白を基調ととしたカラーリングの、他のそれとは明らかに異なるユニークなフォルムの戦艦が、他のそれと同じように火星の大地に乱立する墓標の一部となっていた。

 その戦艦、艦名を、〈ナデシコB〉という。

 かつて命の煌きを示していたはずの者たち、その末路をあらわす幾つもの墓標が並ぶ大地から視線を移し、空へと向けると、そこには少なくない数の艦艇が存在していた。

 その大半は、〈火星の後継者〉の最後の残存兵力。あくまで極秘裏にことを進めていたために人員不足から能力の不足が判っていながら使用された蜥蜴戦争時に多用された無人兵器システムの生き残り。そして、それに仇なすモノ――彼らによって全てを奪われ、復讐に身を焦がす男、テンカワ・アキトの座乗する戦艦〈ユーチャリス〉だった。

 双方、無傷ではない。

〈火星の後継者〉たちの艦艇のほとんどはなんらかの損傷を負っていた。そして、それは〈ユーチャリス〉も同じだった。戦艦とは思えぬほどに優美なフォルムを誇る〈ユーチャリス〉、その白亜の巨体のあちこちに幾つも破孔が存在し、そこからその損傷の深さを容易に見て取れる黒煙が噴出していた。

 その手負いの〈ユーチャリス〉を、やはり手負いの〈火星の後継者〉の艦艇がじりじりと包囲する。同じ手負いとはいえ、〈ユーチャリス〉はただの一隻。対して〈火星の後継者〉のほうはざっと見ただけでも十隻は下らない。

 同じ手負いであるならば、数の多いほうが有利なのは子供でも判る道理である。

 いや、〈ユーチャリス〉は並みの戦艦ではない。その道理をひっこませることの出来る無理を通すことの出来る手管を備えている。

 マシンチャイルドによる、システム掌握。

 かつて〈ナデシコC〉が草壁の手勢を無力化させたその手法を、〈ナデシコC〉の先行試作艦である〈ユーチャリス〉は行うことが出来た。出来たが――、この追い詰められた状況で〈ユーチャリス〉はそれを行っていない。何故か、というと。

『マスター。ラピスは?』

〈ユーチャリス〉に搭載されたコンピューター、オモイカネ・ダッシュはブリッジの艦長席に身を沈めている男に問うた。もっとも、このフネの運行に必用な作業をすべてこなせる多目的オペレートシステムの精髄といっていい艦長席を、マスターと呼びかけられた男が用いたことはそう多くない。操舵その他は、たしかにこの男も出来ないことはない――というか、機動兵器と同じ要領で動かすので酷く上手い。ただし、手荒く乱暴だが――が、矢鱈滅法有能なコンピューターが代行しているので、用いる必要がないのだ。事実、今もIFS用の端末に触れてもいない。

 そして、その有能極まりないコンピューター――というか人工知能――に問われた男、黒衣と憎悪と絶望に身を包んだ復讐者テンカワ・アキトはそれにゆっくりと答えた。

「今……逝ったよ」

 消え入りそうな、酷く小さな声であった。

 返ってきた答えに、ダッシュは主と同じように小さな声で、そうですか、と答えた。

「逝って……逝ってしまったよ」

 そう呟くアキトの腕の中には、かつてラピス・ラズリと呼ばれた薄桃色の髪を持つ少女が抱かれていた。いや、違う。ラピス・ラズリの遺体が、だ。

 終末への第一歩は、〈火星の後継者〉の残党を狩り立てるその掃討戦のさなか、アキトを追ってきたホシノ・ルリの乗る〈ナデシコB〉が、被弾したことに端を発する。旧木蓮の勢力下にある火星への単艦による渡航と帰還に始まる初代〈ナデシコ〉とそのクルーに与えられた奇跡。まるで運命の女神がその奇跡のつけを払わせたとでもいうような一撃。

 次々とボソンの煌きを放ちながらジャンプアウトしてくる〈火星の後継者〉たちの艦艇から放たれる無数のミサイル。その飽和攻撃に対処するために生じた一瞬の防空網の隙をついた機動兵器による一撃。黒煙をあげる白と青の船体。

 それを援護しようとした〈ユーチャリス〉も、同様の手口でブリッジにほど近い箇所に被弾した。その際、吹き飛んだ隔壁の破片がラピスの小さな体を貫いた。アキトはなんとか応急処置を試みたが、結果はラピスの死というものであった。ちなみに、〈ナデシコB〉は〈ユーチャリス〉が被弾した直後にブリッジに直撃弾を喰らい、轟沈している。艦長であるホシノ・ルリをはじめとするブリッジクルーの大半はMIA――戦闘中行方不明、早い話が生存は絶望視されている。

「どこで」アキトは物言わぬラピスの頭をいとおしげに撫でながら、誰に言うでもなく呟いた。「どこで間違っちまったんだろうな」

『マスター……』

 ダッシュはアキトにかける言葉が見つからなかった。凡百の言葉による慰めなど意味を持つまい。かといって、適切な言葉も見つからない。この世界において最高の能力を誇り、初代オモイカネのデータをもとに設計構築され人間と同じような自我と意識を持つダッシュは、自らの不甲斐無さにほぞを噛む思いだった。

 そんなコンピューターとは思えぬダッシュの葛藤をよそに、アキトはラピスの頭を撫でながら言葉を漏らす。

「必死の思いでユリカを助けてみれば、遺跡との融合の後遺症で一月と経たずに逝っちまうし、俺は俺で、ヤマザキの手で植え付けられたナノマシンのせいで持ってあと一ヶ月の命。ルリちゃんはナデシコと一緒に沈んじまうし、ラピスはこれだ」

 悲しみが過ぎて感情が消えうせたのか、アキトの紡ぐ言葉にはまったくといっていいほど抑揚がなかった。だが、それがアキトを包む絶望をよく顕している。むしろ、悲しみに塗れた口調であったほうが幾らかマシなのでは、とダッシュが思ってしまうほどだ。

「俺はいったい何をしてきたんだろうな? いったい何が悪かったんだ? 火星に生まれたことか? バッタに殺されなかったことか? ナデシコに乗ったことか? それともその全部か? 畜生め」

(いや、本当に悪かったことは――)

 吐き捨てるようにアキトがそう言い、内心で自問に答えを出そうとした瞬間、ブリッジが振動に包まれる。

「…………ダッシュ?」

『申し訳ありません』呟きにも似たアキトの問いに間髪いれずにダッシュが答えた。『避け損ないました』

 ラピスの亡骸を胸に抱いているアキトに代わって〈ユーチャリス〉の操舵を担当しているダッシュは、周りを十重二十重に囲む〈火星の後継者〉の砲火を神域に至る技量でもって回避していた。とはいえ、やはり多勢に無勢。ほぼ全周を囲むように配置している敵の放つ攻撃をすべて避けることは不可能だった。

「そうか。いや、かまわん。苦労をかけるな」

 ダッシュの詫びに短く労わると、アキトはその顔に浮かべる表情を愛すべき者を、護るべき者を失い悲嘆に暮れる男の顔から、復讐者のそれへと変えた。

「ダッシュ、〈ユーチャリス〉の現状を報告しろ」

『はい。現在、船殻の五ケ所に被弾。第五、第六、第十八ブロックが消失。ただし、推進器、相転移エンジン、ボソンジャンプユニットとなどの主用機関にダメージは認められません。本艦は全戦闘力の九五%を保っています』

「敵の様子は?」

『本艦の全周を囲むようにして二〇隻。およそ一五キロほどの円周上に陣取っています』

「最後に――――こちらの勝率は?」

『――五%を切っています。シミュレーションでは、向こうのフネを五隻沈めたところで轟沈させられてしまいます』

 それを聞いたアキトは顔に壮絶な笑みを浮かべる。

「年貢の納め時、というわけか。畜生め、楽しくなってくるな――ボソンジャンプユニットは無事なんだったな?」

『はい、マスター――撤退しますか?』

「莫迦をいうな」飢狼のような顔つきでアキトはダッシュの問いを切って捨てた。「ユリカの、ルリちゃんの、――そしてラピスの仇を放って逃げ出せるか。たとえ機械ども相手とはいえ、連中に今更背を見せて逃げ出すなど御免被る」

『ですが』

 なおもいいつのるダッシュに、アキトは腕の中で眠ったようにしているラピスの骸を抱き寄せながら答えた。

「リミッターを解除してジャンプフィールドを展開。連中を巻き込んで太陽の中にジャンプする」

『――それは』

「出来るか?」

『出来ますが……しかし。……いえ、なんでもありません。マスター』

「すまんな」

 詫びるアキトに、ダッシュは吹っ切れたような口調で答える。

『いえ、かまいませんよ。ラピスの仇がうてるんですから――むしろ望むところです』

『ぼくは出番がなくてちょっと寂しいけどね』

 不意に『SOUND ONLY』と表記されたウィンドゥが開く。

「サレナか。すまんな、俺がまともな身体だったらおまえで討って出るんだが」

 アキトの身体が機動兵器のGに耐えられないほど消耗しているために、格納庫で無聊をかこっているブッラクサレナのAIに、アキトが詫びる。

『いいよ、マスター。ぼくもラピスの仇をうてるんだったら』

「そうか」サレナの答えに、短く呟いてアキトはラピスの頭を撫でた。「お前たちには本当に迷惑をかけたな。それに、ラピス。俺の復讐に巻き込んだ挙句、殺してしまった。せめてこの子には幸せになってほしかったが……ああ、いまさら言っても遅いのは判っているが」

『マスター……』

 淡々とした口調で言うアキトにダッシュが声をかけようとした瞬間、再び、ブリッジに振動がはしった。

『マスター、くよくよしてる暇はないみたいだよ? はやいとこ跳ばないと沈められちゃうよ?』

「ああ、判ってる。判っているとも。――ダッシュ、ジャンプフィールド全開。連中を地獄に案内してやろうじゃあないか」

『了解』

 次の瞬間、〈ユーチャリス〉を中心とした空間に淡い光が疾り――

 ジャンプ。

 ――微かなボソンの煌きを残して、全てが跡形もなく消え去っていた。



(…………ここは、どこだ?)

 アキトは霞みがかかったような思考でぼんやりと考えた。

(俺はあのとき、〈火星の後継者〉たちを道連れにして太陽にジャンプして……)

 そこまで考えたとき、アキトは自分が何処にいるのか気付く。

(試験管の中、だと!?)

 自分が、人工羊水で満たされた巨大な試験管を漂っていることに気がついた。

(夢、だったのか?)

 愕然とした思いに囚われながら、アキトは思う。

(いままでのことは〈火星の後継者〉たちに捕らわれ、来る日も来る日も実験動物として扱われる合間に見た夢だった、と? ユリカを失った悲しみも、ルリちゃんがナデシコと沈んだときに感じた衝撃も、ラピスが俺の腕のなかで冷たくなっていく感触も、すべてが夢だった、と?)

 ………………

 …………

 ……

(どうせ見るなら、もっとマシな夢を見ればいいものを。何が悲しくてあんな救いのない夢を――)

 そこまで考えたとき、アキトは再び睡魔に襲われた。まどろみ。

(次は、もっと幸せな夢を――)



SONGS OF US WHO EXPRESS IT AGAIN vol.0

End and beginning
END



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