――夢と現実の狭間を漂う奇妙な浮遊感に包まれていた〈彼〉は、不意に自分の意識が二つの世界の境界から、片方に傾いていくことを知覚した。急激に一方に吸い寄せられていくような感覚の最中で、〈彼〉は自分の躯に奇妙な違和感と異物感を覚えた。
(――面妖しい)
〈彼〉は意識の中で微かに眉を顰めた。思う。自分は、〈彼女〉との繋がりがなければ見ることも、聞くことも、味わうことも、感じることも出来ぬ躯だったはず。躯に、何が不自然であるという感覚を覚えることすら出来ないはずなのだ。
そこまで考えて、彼は苦笑した。ああ、莫迦だな、俺は。アレは夢の中のことじゃないか。いや、どうだろう。アレは本当に夢だったのか? それとも、あの夢を見た自分は今ごろ彼女たちと同じ屋根のしたで安物の布団で惰眠を貪っているんじゃないだろうか。いけないな、そろそろ今晩の仕込みをしないと。最近は常連さんも出来てきて――
そんなことを胡乱な、うすぼんやりとした意識で考えている間にも、自分の意識が現実の側に傾いていく。半ばまどろみの中を漂いながら、〈彼〉の耳に誰かが話す声が聞こえ始めてきた。〈彼〉はなんとはなしに、その声に傍耳を立てる。
「いや、お前……ホントに好きだな」
清潔感が漂う――というよりも、冷たく、無機質な印象の方を強く受ける一室で、そこに備え付けられた椅子に腰をおろしていた白衣に身を包んだ男が、向かっていた机の上のコンソールから視線を外しながら言った。声には、どこか呆れたような色が多分に含まれていた。
「ん?」
半裸の男が、そんな男の呆れ声に気付いたように、自分が没頭している行為から意識を逸らして声を漏らした。答える。
「別にいいじゃないか」声には、自分の行為になんら疚しさを覚えていない人間特有の色があった。「機密保持のためにこんなクソつまらん場所に缶詰にされてるんだ。他に碌な娯楽もないんだ、多少は役得があってもかまわんだろう? それに――」
男は、自分の体の下に一瞬、視線をよこして言葉を続けた。
「――こいつはもう破棄されるんだ、問題ない」
そう答えて、再び行為に没頭しはじめた半裸の男に、白衣の男はやれやれ、といった感じで肩を竦めた。
「まぁ、たしかにその実験体はテストベッドとしての役割も終わっているからいいんだがな。実際、そいつで取れたデータは貴重なサンプルだ。実験体自体は一度も起動したことはなかったが、それでも十分に成果はあった。というか、俺がいいたいのはそういうことじゃない」白衣の男はそこまで言って、揶揄するように半裸の男を半眼で見る。「おまえ、よく人形相手に勃つな? それに、破棄云々っていってたが、前にも何度か実験体に手を出していただろう?」
「なんだ」白衣の男の言葉に、目を丸くしながら半裸の男は答えた。「知ってたのか」
「知らいでか」色白の、ともすれば病的な印象さえ受ける小柄な少女――彼等の言葉であらわされるところの実験体を組み敷き、腰を振っている半裸の男に呆れたように溜息をつきつつ、白衣の男は言った。「俺は、そいつの調整担当なんだぞ? 知らんはずがなかろうが。まったく、手を出すなら出すできちんと後始末をしろ。そいつの体から何度別DNAの含まれた蛋白質を検出したと思ってるんだ。ま、上の連中に出す報告書では誤魔化しておいたが」
「そりゃ悪かったな」淫猥な水音を立てながら腰を振る男は呟いた。「だが、どうしてだ?」
「何、オマエは優秀だからな。少なくても頭の中身は。人格のほうはどうか知らんが。そんなヤツがくだらんことで処分されるのは勿体無い――そう考えただけだ」
「それはそれは」男は、組み敷いた少女から得られる快感からか、あるいは白衣の男の揶揄とも賞賛ともとれる言葉にか顔を奇妙な笑みに歪めて言った。「随分と評価してもらってるみたいで光栄の至りだ」
「で、さっきの質問に戻るんだが……よく人形相手に欲情できるな」
相変わらず呆れたような声でいう白衣の男に、半裸の男は腰の前後運動を止めることなく答えた。
「俺に言わせてもらうならおまえらの方がおかしいと思うぞ? これだけ整った造りの連中が一糸纏わん姿でぷかぷか浮いてるのを見て股間を刺激されないのか? 俺はそこまで枯れちゃいない」
ふん、ふん、と息を荒げながら腰を振る男の言い草に白衣の男は呆れたとばかりに天を仰いだ。
「枯れるとか枯れてないとか、そういう問題じゃない気もするんだが。まぁ、百歩譲っておまえの嗜好は良いとして、何の反応も返さない相手を抱いて楽しいのか?」
「ダッチワイフを使っていると思えば気にもならない。それに、股間は十分に気持ちよくなれる」
その答えに、白衣の男は溜息。
「高価な実験体をダッチワイフ呼ばわりか」なんともまぁ、とでも言いたげに肩を竦める。「いや、まぁ、確かに同じ人形だが」
「なるほど、おまえらもヤマザキと同じ下種か」
不意に室内に響いた自分たち以外の声に、男たちはびくりと身を震わせた。そのうち、少女を組み敷いていた男は、何が起こったのかも判らずに、
「ぐふっ!?」
絶命。喉から呼気と血を噴出して診察台に崩れおちる。
「なっ!?」
白衣の男は思わず椅子から腰を浮かす。いったい、何が。
その男の内心に答えるように、自分の上に覆い被さるようにして絶命した男を退けながら、組み敷かれていた少女が起き上がる。その拍子に自分の中に収まっていたいまだ硬度を失わない男のいちもつがずるり、と抜け落ちる。その感触に、返り血に染まった少女は眉をしかめた。
「実験体が意識を――!?」
その様子を目を丸くしていた白衣の男は、驚愕の声をあげた。当然といえば当然だろう。今までどんな処置をほどこそうとけして起動しなかったものが喋っているのだ。問題があるとすれば、自分の同僚があきらかに命を落としていることよりも、実験体が起動したことのほうに意識をとられていることかもしれない。
「まぁ、そういう連中だというのは判っているがな」
少女は嘆息するように呟いた。そのまま、診察台から床に降り立つ。ふわり、とした動作に伴って、長いアッシュブロンドの髪がふさりと揺れた。少女の美しい容姿と相まってひどく幻想的な光景だ。もっとも、その幻想的な光景を一人見ている白衣の男は、
「すごい、すごいぞ!! 実験体が起動してる!!」
と、まったく感銘をうけた様子はない。
「さぁ、きみ! はやくこっちへ! いろいろと調べたいことや試したいことが――」
「黙れ」
嬉々として喚く白衣の男に、少女は底冷えのする声でぴしゃりと言った。あまりの迫力に、男は思わず黙る。
「まったく、貴様らのような連中は虫唾が走る。多少は人間らしい反応を返せば考えないでもなかったが――」
言いながら少女は男に歩み寄る。
「な、何を言って――」
得体の知れない雰囲気を放ちながら自分に向かってくる少女に、気圧されたようにどもりながら男は口を開きつつ後ずさる。だが、それも束の間。すぐに距離をつめられ、男は少女に追い詰められる。がしり、と頭を捕まれ、
「いい加減、貴様の顔は見飽きた。消えろ」
ぐしゃり、と握り潰される。血が、脳漿が、頭蓋骨の破片が、飛び出した眼球がぼとぼとと床に落ちるのをつまらなさそうに見ていた少女はすぐにそれから興味を失ったようにあたりを見渡す。その顔には明らかな困惑が浮かんでいた。
「――これは、どういうことだ?」表情と同様に困惑を多分に含んだ声でそう呟いて、少女はあたりを見渡す。「なにがどうなっているんだ?」
目が覚めたら、知らない男にレイプされていた。それはいい――いや、よくはないか――まて、そもそも俺は男じゃなかったか? 俺はあのオンボロアパートの安布団で惰眠を――そうだったか? いや、違う。俺はあの腐れ外道たちの研究施設で――ラピスを死なせて、太陽にジャンプをして、試験管のシリンダーの中で嘆きながら――
「――どうなってるんだ、いったい」
少女――テンカワ・アキトはともすれば自身のアイデンティティすら危うい困惑と混乱の中で、慨嘆するように呟いた。脳裏に、胡蝶の夢、という言葉がよぎる。月臣たちに助け出されてからしばらく、五感の失われた躯では何も出来ず、IFSを応用したメディア機器を使って色々と勉強していたときに読んだ(あるいは脳に焼き付けた)知識だ。自分が蝶になった夢を見た男。自分の立場は、まさにそれではないか? あの幸せな日々も、煉獄の中に叩き落されたような血塗られたような日々も、凡て、夢。テンカワ・アキトなどという男は何処にも存在せずに。
「いや、だが」
足元に存在していたはずの確固たる何かが急激に崩れ去っていくような思いに囚われつつも、少女は顔を青褪めさせつつ独り呟く。あれが夢だとして、ああも生々しく記憶に残るものなのか? 頭の中を麻酔もかけずに弄りまわされる激痛。自分の目の前で物言わぬ部品と化していく妻。腕の中で冷たくなっていく少女。凡てが夢?
だが、そう考えれば、この躯のことも納得が出来なくも無い。あの記憶の中の自分とは似ても似つかぬ華奢な少女の躯。だが、だが――
「ちくしょう」少女は呻くように呟いた。「どうなってるんだ、ほんとに」
仰いでいた天井から、俯くようにして視線を外した。不意に、先程まで自分が犯されていたベッドが目に映る。いや、そのベッドの鍍金の施されたパイプフレームが目に映った。そこに映し出される歪んだ自分の姿を見つめる。歪んだ鏡像の世界から、金色の瞳をした自分がこちらを見つめ返してきていた。
「――マシンチャイルド」
少女は思わず夢の中で何度も耳にした言葉を口にしていた。遺伝子にヒトの手を加えて産み落とされた電子情報の申し子たち。その天然自然にはけして存在せぬ異形の金眼が、見ようによっては泣きそうな表情でこちらを見つめていた。瞬間、脳裏に浮かぶのは自分を慕ってくれた義妹と、自分以外の世界を知らなかった哀れな少女。
「マシンチャイルドなのか、俺は――」
呟くように言って、少女は、先程手にかけた男たちが交わしていた会話の内容がなんであったのか理解した。そうか、ここはマシンチャイルドの研究施設なのか。そうか。少女は、夢のものとも現実のものともいまだ判らぬ記憶をもとに急速に思考を展開する。あるいは、それは自身の存在の不確かさという不安からの逃避だったのかも知れないが。
果たして今時分マシンチャイルドの研究に手を出している連中というのはどこのどいつだろう? マシンチャイルド研究の本家本元であるネルガル――ということはありえまい。会長のアカツキ・ナガレという男は、企業家としては悪辣で狡猾かも知れないが、人としての倫理観だけは維持している。まぁ、ラピスのときのように会長にだんまりで、ということもなくはないが、その可能性は皆無といっていい。何せ、あのプロスペクターの率いるネルガルSSが合法非合法を問わずに非会長派の所業を調べ尽くして、会長の意に添わぬすべての計画を叩き潰している。ネルガルはシロだ。
では、クリムゾングループだろうか?
ありうるかもしれないが、それもどうだろう? 〈火星の後継者〉の騒ぎのあと、彼らとの癒着が明るみに出た彼らにそんな余裕があるとも思えない。マスコミと世間に叩かれるだけ叩かれて業績が涙を誘うほどに落ち込んでいる彼らが、明るみに出ればまたぞろバッシングの火種になる研究に手をつけるだろうか。
ならば、〈火星の後継者〉は?
いつか来るやも知れぬ再起の日に備えて、その戦力の一助とするためにマシンチャイルドを作り出している――というのは無理か。なにせ、連中の拠点は悉く叩き潰した。物理的に。連中に生き残りがいたとしても、そんな真似の出来る体力はない。
そこまで考えて少女は自嘲するような笑みを浮かべた。
「いや、それもこれも俺の記憶が夢の産物ではない、という前提でのことだがな」
くっ――と、喉を鳴らすような歪な笑いを口から漏らした少女は、何かを決意したかのように俯くようにしていた顔をあげた。
「とりあえずは、調べるよりほかはないな」
言って、少女は二つの死体の転がる室内に目をやる。先程まで白衣の男が扱っていたコンソールに近寄り、そこから情報を引き出そうとするが、どうやら考え込んでいる間にかなり時間が過ぎていたらしく、コンソールから生えるようにして存在している薄いモニターにはパスワードを要求する画面が映し出されていた。無論、少女はそんなものは知っていない。舌打ち。IFS対応の端末であればどうとでもなったのかも知れないが、これではどうしようもない。色々聞き出してから殺せばよかった、と少女は自分の短慮をほんの少しだけ後悔した。
「仕方がないか」
他を当るとしよう。今日び、IFSを用いていない研究者というものはけして多数派ではない。この手の通常の端末よりもはるかに効率がいいからだ。一般人ならば、体内にナノマシンを抽入することに忌避感を抱くものも多いが、その手のくだらない思い込みの少ない人種である科学者だのなんだのは、進んで体内にナノマシンを取り入れている者が多い。
で、あるならば。
この施設にもIFS対応の端末があるはずだ。それを利用すればいい。ハッキングだのクラッキングだのといった技術は、必要に迫られて会得している。かてて加えて今の自分はマシンチャイルド。ならば、その能力を十全に生かすことの出来るシステムさえあれば如何様にも調べ上げることが出来る。情報化された社会において、マシンチャイルドに調べられぬことなどあるはずもない。少女は、短時間の間にそこまで考えると、血と死の臭いの充満した部屋をあとにした。
「ぎゃひ!?」
廊下に、血の花が咲いた。見れば、他にも同じような花が点々と咲いている。花を咲かせた種は、白衣の研究所員たち。そして、それを開花させているものは、
「俺を実験体などと呼ぶな」
自分を見た所員たちが、「あの実験体が起動している!?」と異口同音に叫ぶたびに柳眉を逆立てそれらを血祭りに上げている、丈の合わない白衣を纏っているの美少女だった。廊下に次々と血の花を咲かせて歩く少女の歩みは、電算室、と鋲でプレートのとめられたドアの前で止まった。横に据えられたスイッチに手を伸ばし、ドアを開く。
勤務時間外だったのか、室内には誰もいなかった。これ幸いとばかりに少女――アキトは室内を物色し、目的の物を探す。数寸、辺りに目を走らせていたアキトは探し物を見つけた。見慣れた、IFS対応の端末だ。ひたひたと素足で冷たい床を歩き、端末に手をかざす。瞬間、彼女の全身に淡い光の紋様が浮かび上がり――
「システム掌握……完了」
アキトは誰に言うでもなく呟いた。正直、ここまで上手くやれるとは思っていなかったが、思えば素人同然の状態でエステバリスを操ってバッタと渡り合ったこともあるのだ。それに比べれば、そのように作られた身体でそれを行うことなど大したことではないのかもしれない。以前、ラピスに興味本位で「システム掌握っていうのはどんな感じでやっているんだ?」と尋ねたアキトに、彼女は、「勘」と短く答えたことがあった。そのときは、いくらか呆れたものだったが、今になってなるほど、と頷いている。たしかに、これは普通のハッキングやクラッキングとは違う。0と1で構築されたロジックを、感覚的に蹂躙し、従わせる。なるほどなるほど、確かにこれは『勘』としかいいようがない。
なんにせよ、目的の第一段階は果たした。あとは乗っ取ったここのシステムを解析して、いったいぜんたいどこの外道がこの施設を運営しているのか調べなくては。
そう考えた瞬間、アキトの脳裏に幾つもの情報が走る。軽く意識を向けただけで、身体が必要な行為を行っているらしい。データベースから様々な情報が飛び込んでくる。一番最初に脳に飛び込んできたのは、ここで行われていた悪魔の如き所業の数々だ。ヤマザキたちの研究室で身をもって体験してるとはいえ、というよりも、体験しているからこそ、この手の人を人とも思わぬ行為の数々、その記録にアキトは怒りに顔を歪ませた。
自らの行為が科学の発展に寄与する正当なものである、という驕った理念のもとに行われた数々の行為。御丁寧なことに映像記録まで残されていたそれにアキトの怒りは頂点に達した。
殺す。
殺して、殺して、殺し尽くす。
完膚なきまでに鏖殺する。
怒りに当初の、『ここがどんな連中の施設か調べる』という目的は何処かに吹き飛んでしまったらしい。アキトはこの施設の警備システムを調べあげた。
ふん、機密保持のために人間の警備員は皆無か。その代わり、システムには金を使っている。対人レーザーに機関銃を装備したロボット。他にも侵入者を生かして帰さないことに心血を注いだ装置の数々が山のように。
それらを一通り調べあげたアキトの顔に、地獄の悪魔のような――否、地獄の悪魔ですら逃げ出しそうな壮絶な笑みが浮かんだ。
「自分たちの作ったモノに、その罪を断罪されて――死に尽くせ」
瞬時に、システムのプログラムを書き換えるアキト。具体的には、研究所の所員たるを示す識別コードの入ったネームプレートを持った人間を排除対象と見なすようにした。
プログラムを実行した瞬間、研究所のそこかしこから有り得ない事態に驚愕する研究所員たちの魂消える叫びが響く。幾条ものレーザーに身を貫かれる者、着弾した機関銃弾に頭部を吹き飛ばされる者。目を背けたくなるような惨劇が建物の中で繰り広げられている。
その惨劇をアキトは監視カメラを通じて飽きることなく眺めていた。碌な抵抗も出来ないまま所員たちが虐殺されていく様子を眉一つ動かすことなく見ている。その内心に罪悪感の欠片も存在しない。別段、アキトに虐殺を愉しむ嗜好があるわけではない。それどころか、今も昔もテンカワ・アキトという人物はそうした嗜好から遠く離れた場所にその精神を置いていた。確かにアキトは復讐の過程で幾つものコロニーを落とし、そこに生きる何万という人命を奪った。だが、それに罪悪感を覚えなかったことなどない。いや、罪の意識を持っているからこそ、自分に帰ってきて欲しいと願う人々から遠ざかったのだ。
だが、彼が悼む死の中に、外道の命は含まれない。
他人の命を、尊厳を、科学の発展などという美名の名のもとに蹂躙する奴輩にかける情けをアキトは持ち合わせていなかった。
科学の発展? それは素晴らしい。実に素晴らしい。時代を押し進めるのにはなるほど確かに犠牲が必要なのかも知れない。ああ、だが、だがな、その発展のための犠牲に他人を供するな。犠牲が欲しければ自分の命を差し出せ。くそ、死ね、死ね、死ね。死んで死んで死に尽くせ。
はたしてどれほどの時間が経過したのか。
監視カメラの視界の中で、最後の一人が全身を蜂の巣にされて絶命した。白衣を鮮血に染めた人間であった肉塊、それをモニターで一瞥したアキトはようやくのことでその身を焼き尽くすような怒りから開放された。そこで、ようやく自分以外に生き残っているマシンチャイルドがいることに思い至った。ほかのマシンチャイルドは実験で命を落とすか、データをとり終えて破棄されていた。すこし遅ければアキトもその中に含まれている。件の生き残りは、幼すぎて実験に供されなかっただけ。胸の悪くなってくるような事実だった。
とまれ、放っておくわけにはいかない。
とりあえず、今はそのマシンチャイルドを保護しなくては。ここが何処で誰の施設か調べるのかは後回し。アキトは自分の体には大きすぎる椅子からひょこりと飛び降り、保護すべきマシンチャイルドの元に向かった。
アキトが去った部屋、そこにあるモニターに何者かからの呼びかけがあることに気付くものはいない。
「ここ、か」
システムを調べ上げた際にあった所内の見取り図に、目的の場所は記されていた。そのドアの前に立つアキトの顔が怒りに歪む。その原因はドアにうたれたプレートに記された文字。
「……機材倉庫だと?」
どこまでいってもモノ扱いか。
「いっぺん生き返らして、もう一度殺してやりたい気分だ」
吐き捨てるように呟くアキト。しかし、今はそれよりも生き残りのマシンチャイルドの保護だ。アキトは内心で荒れ狂う感情の嵐をどうにか押さえつけて、胸の悪くなるような名前のついた部屋に足を踏み入れた。
薄暗い照明に照らされた室内には幾つもの巨大な試験管――培養槽――が並んでいた。ただ一つを除いて何も――いや、『誰も』入っていないそれを見たアキトは、そこに入っていたはずのマシンチャイルドたちのことを思って数寸瞑目する。あたりまえの人生を送ることもできずにモノとして扱われ、死んでいったマシンチャイルドたち。
ゆっくりと目をあけたアキトは様々な感情が混交とした表情で目的の試験管の前へと歩いていき、
「――――な!?」
驚愕の声をあげた。
その試験管の中に眠りながら浮かんでいるマシンチャイルドは、アキトのよく知る相手だった。
「ラ……ピス?」
そう、そこにはラピス・ラズリがいた。もっとも、アキトの知るラピスよりもよほど幼い容姿だったが。だからといって、アキトが彼女を見間違えるはずはない。自分と深いところで繋がり、その死の瞬間を看取った少女をどうして見間違おうか。
不意に脳裏に蘇る、腕の中で冷たくなっていく薄桃色の髪をもつ少女の感触。そして、それを看取っていた時の感情。
「ラピス……」
ふつふつと湧き出る感情の波。それをどう扱ってよいのか判らず、呆然と立ち尽くすアキト。気がつけば、滂沱と頬を涙が流れ落ちていた。それに気がつき、ふたたび困惑するアキト。かつて目の前の少女を看取った時には流れ得なかったものが今、自分の頬を熱く濡らしていることに激しく動揺している。
どうして、泣いているんだろう。あの時は、涙なんて流れなかったのに。
打ち続く悲しみの中で涙さえ枯れ果てたはずの以前の男には判らなかったのかも知れない。自分が涙を流している感情が歓喜であるということに。
かつて幸せにすることが出来なかった、自分の復讐に巻き込んだ結果、死なせてしまった相手が生きている。普通なら有り得ないはずの現実に、自分でも判らぬほどアキトは喜んでいた。そして、それと同時に、アキトは目の前の少女によって自己の存在を、その記憶がけして夢や幻ではないという確証を得た。もしかしたら偶然かも知れない、という不安がないわけではないが、それでも、目の前で漂う幼子は、自分の存在を確定してくれる確固とした物証だった。
そうして、どのくらい試験管の前で涙を流していたのだろうか。ふと気付けば、いつの前に起きていたのか、試験管の中に浮かぶラピスがこちらを不思議そうに見ていた。
そのラピスと目が合って、アキトはハッと我に帰る。
自分は何をしているのか。阿呆のように泣いている前にラピスを助けなければ。試験管に据え付けられている操作盤に指を走らせる。途端、見る見るうちに中を満たしていた人工羊水が排泄されていき、それに伴って中を漂っていたラピスの体がゆっくりと沈んでいき、最後にぺたりと試験管の底にへたりこむ。
空気が抜けるような音とともに試験管が開く。
「――またじっけんするの?」
こちらを不思議そうに眺めていたラピスの放った第一声は、それだった。ラピスが実験に供されなかったといても、それはあくまでその体に致命的なダメージを与えるほどの物は、と但し書きがつく。予備的なものは恒常的にうけていたのだろう。それがゆえの言葉だった。
その言葉に、アキトはその身を強張らせる。こんな小さな子供に、そのような言葉を吐かせる連中に再び形容し難い殺意が湧き出る。だが、今はそれよりも。
「…………もう、そんなことはしなくていい。しなくていいんだ」
試験管の底で座り込むラピスの体を、優しく抱きながらアキトは言った。
「じっけん、しないの?」
「しない」自分の腕の中で小首を傾げながらたずねるラピスに、アキトは言った。「もうキミにそんなことをする連中はいない。いたとしても、俺がさせない」
「じっけん、しなくていいんだ……」
「そうか。それから――」アキトはラピスを抱きしめる腕に力を込めた。「ありがとう。生きていてくれて、ありがとう」
言い表しようのない感情を、なんとか口にするアキト。無論、自分の目の前にいる少女があのラピスではないことは嫌というほど判っている。なんといっても、その死を看取ったのはアキト自身なのだ。それでも、アキトは嬉しかったのだ。
「…………ないてるの?」再び溢れだした涙がラピスに落ちたらしい。「どうしたの?」
「嬉しいんだよ」
抱き締めていたラピスを開放したアキトは、くしゃくしゃになった顔でラピスの顔を見つめながら言った。
「ところで、キミ、名前は?」
無論、今のラピスに名前などないことは判っている。そして、帰ってくる答えも、判っている。
「No.027」
案の定、ラピスは今の自分を識別する名詞、否、番号を口にした。それを口にさせたことにアキトは酷い罪悪感を覚える。ラピスに自覚があるどうか判らないが、自分は人ではなく物であると言わせているようなものなのだから。だが、それでもそれはアキトにとって必要なことだった。
「違う。それは名前なんかじゃない」
「でも、みんなわたしのことをこうよんでいた」
「それでも」アキトは首を横に振る。「それは、名前なんかじゃないんだ」
強い口調で言うアキトに、いままで感情らしいものを浮かべていなかったラピスの顔に困惑が浮かんだ。
「じゃあ、わたしにはなまえがない」
「……キミが構わないのだったら」アキトはラピスの目を覗き込むようにして言う。「俺がキミの名前をつけてもいいか?」
アキトの申し出に、ラピスはすこしばかり考え込んだが、
「かまわない」
と、小さく頷いた。それを聞いてアキトは嬉しそうな、それでいて悲しそうな表情を浮かべる。内心では、自分が行おうとしていることが酷い偽善であることを嫌というほど自覚している。目の前にいる薄桃色の髪の少女はアキトのラピスではない。彼女は死んでしまった。自分が殺したようなものだ。だが、今、自分は目の前の彼女にラピスの名を送ろうと思っている。死んでしまった彼女や、目の前の少女にとってそれがどれほどの侮辱となるのか。死んでしまったラピスは生き返らないし、目の前の少女はアキトのラピスではない。だが、それでもアキトは目の前の少女に宝石の名前を与えようとしていた。死んでしまった彼女を忘れないために。そして、今度こそこの薄桃色の髪の少女を幸せにするようにとの誓いを込めて。
「そう、だな」内心の葛藤を抑えて、なるたけ優しげな表情でアキトは言った。「ラピス・ラズリ、っていうのはどうかな? 宝石の名前なんだけどね。キミにぴったりのような気がするんだけど」
「らぴす・らずり……」薄桃色の少女はアキトの口にした名前を小さく反芻するように呟いた、「それで、いい。わたしのなまえは、らぴす・らずり」
「気に入ってくれたかな?」
アキトの問いにラピスはこくんと頷く。
「そうか、良かった」アキトは安心したとばかりに微笑む。「それじゃあ、ここから出ようか? ラピスの服も見繕わないといけないしな」
つい先刻まで人工羊水の中を漂っていたラピスは何も身に纏っていない生まれたままの姿だ。いや、それはアキトも似たようなものなのだが。兎にも角にも、幼いとはいえ少女二人が裸身のままというのは問題がある。
なにか適当な服があればいいんだが、と思いながらアキトはラピスの手を引いて部屋を後にした。
結局、手に入ったのは病院服のような簡素な貫頭衣だけだった。考えてみれば、まともに人間あつかいされていないアキトやラピスにあう服が置いてあるはずもない。おそらくは実験の際に着せられていたであろうそれを身に付けることには嫌悪感を感じたが、仕方ないと割り切って着ることにした。
その後、アキトはラピスを助け出すために中断していた作業――この研究所の素性を探る――を再開しようとしたが、それはしばらくの間、不可能だった。何故かというと、ラピスが自分にべったりとくっついて離れないのだ。一種の刷り込みのようなものだろう。おそらくは、自分のことを初めて実験体として扱わず、かつ自分に名前を与えてくれたアキトを保護者として認識したのだろう。それはいい。それはかまわない。
「それにしても、な」
アキトは往生していた。自分は確かにラピスを幸せにすると誓った。それは間違いない。だが、ここまでべったりとくっつかれるのは予想していなかった。かつての自分もラピスに懐かれていたが、ここまでではなかった。
この有様では研究所の素性をどうこうというのは無理だった。いや、出来ないことはないが、その場合ラピスもそれを目にすることになる。そうしたならば、彼女にかつて受けてきた仕打ちを思い出させ辛い思いをさせる――アキトにとって容認できる事態ではない。結局、アキトが作業を再開することが出来たのは愚図っていたラピスをあやし、眠りつかせた後だった。その頃にはアキトも慣れない子守りで疲労困憊という有様ですぐにでも横になりたかったのだが、今を逃せば再びラピスの世話に時間を取られることになる。そんなわけで、アキトは電算室に足を向けていた。
訪れたIFS端末の前でアキトが目にしたのは、こちらに呼びかけるコールの嵐だった。一瞬、ここの関係者からのものかと思ったが、そうではないらしい。しばし対応に迷ったが、アキトはそれに答えることにした。
『マスター! 御無事ですかっ!?』
IFS端末に意識を通わせた瞬間、無数のウィンドゥが開く。
『ずっと呼びかけていたのに反応がないから凄く心配したんですよ!? ジャンプアウトしたらラピスの遺体と一緒にマスターは何処かへ消えてるし、手がかりを探そうと思ってネットを検索してたらマスターらしき反応があったから呼びかけようと思ったらすぐに消えて――』
「……もしかして、ダッシュか?」
無数に開いたウィンドゥからマシンガンのように話し掛けられて圧倒されていたアキトは、ようやくのことで口を開いた。
『もしかしなくてもダッシュです! 何を言っているんですかマ……』そこまで言ってダッシュは言いよどんだ。そして、恐る恐るといった様子でたずねてくる。『ええと? マスターですよね?』
「だと思う」
『……どうして女の子になってるんですか?』
「いや、俺に聞かれてもな」
喧喧諤諤の応酬を行ったあとで、ダッシュはひとつの推論を提示した。
『そちらの研究所のデータベースを検索して判ったのですが、今のマスターの体には、遺跡から採取されたナノマシンが相当量投与されているようですね。起動しないことをいいように、データ取り目的でかなり無茶な真似をしたみたいです。ああ、DNAの段階から色々と弄ってもあるようです』
「らしいな」
『で、そこから推察するに、そのナノマシンが触媒になってマスターの意識がその体にジャンプアウトしたようです』
「どうして意識だけが?」
『判りません』ダッシュは人間であれば肩でも竦めそうな調子で言った。『最初は、この時代にはテンカワ・アキトが存在し、あくまで異物でしかないマスターの体はこちらに出現出来なかったと考えたのですが――』
「それはないだろう」アキトは言った。「それであれば、俺が月にランダムジャンプで跳ばされた時、地球には過去の俺が存在していたことが説明できない。いや、その時間に跳んできた俺が存在できたこと、と言うべきか?」
『ええ、私もそのことに思い至り、この想定を破棄しました。ですから、判らないのです。イネス女史ならば何か突飛なことを思いつきそうですが』
「そして長々と説明を受ける?」
言って、アキトは苦笑を浮かべた。数時間前までの深刻さはその表情に存在しなかった。ラピス、そしてダッシュという物証で自分の存在をこれ以上ないくらいに認識できたことによる心理的な余裕が、今のアキトに多少苦いものが混じってはいるが、自嘲以外の感情からくる笑みを浮かべさせていた。そして、その余裕がダッシュの説明の中に、聞き逃してはならない言葉が含まれていることに気付かせた。あまりにも何気ない調子で言われたため、聞き逃してしまうところだった。
「今、『この時代』って言ったか、ダッシュ?」
『はい。どうやら私たちは時代を遡ってジャンプアウトしてしまったようです。ちなみに、現在は西暦2195年。ナデシコ出航の一年前ですね』
「まさか、とは思っていたが」
自分の記憶よりも幼いラピスを見たときに、その可能性は考えた。だが、そんなはずはなかろうと頭の隅に追いやったのだが。
「本当に逆行しているなんてな」
『ボソンジャンプは空間移動ではなく時間移動ですから。それに、マスターもさきほどご自身で仰ったように一度時を遡っているはずですが』
「それはそうだがな」
ダッシュの言葉に、アキトは疲れたように苦笑を漏らす。
それよりも、とダッシュは続けた。『これからどうします?』
ダッシュの問いに、そうだな、と小さく呟いてアキトは考え込んだ。
「アカツキに保護してもらう。ラピスがここにいるってことは、ここはネルガルの施設だろうからな。法で規制されたマシンチャイルドの研究施設――おそらくアカツキ以外の人間が関った『ネルガルの』施設に関する情報を握る俺たちを無碍にはできんだろう。いい返事を貰えなかったら――ここで行われていた非人道的な行為をばらすと言えば否応もないだろうしな」
『そうですね。それじゃあ、おまけに対立している社長派の不正の証拠も調べて一緒に教えてあげましょう。恩を売れます』
ダッシュの提案に、ああ、と頷くアキト。
「あいつ、今の時期だといろいろ苦労してるだろうから喜ぶかもな。それでいこう。ダッシュ、お前はネルガル社長派の不正を調べてここの情報と一緒にアカツキのプライベートアドレスに送信しておいてくれ。差出人の名義は俺で」
『ご自分ではやらないんですか?』
「眠いんだ、すごく」アキトはこれみよがしに欠伸をしてみせる。「今日はいろいろあったうえにラピスの子守りでくたくたなんでな」
それに、そうした作業はお前のほうが向いてるだろう? と、アキト。
『なるほど。お疲れ様です。ではアカツキさんへの連絡はこちらでやっておきます――と、差出人の名義はどうしますか? テンカワ・アキトでは問題があると思いますが』
その言葉に、アキトは、むっ、と小さく声をあげる。そう、アキトは他にいて、自分はアキトではないのだ。
「――どうしたもんか」
『考えてなかたんですね』
呆れたというように嘆息するダッシュ。
「――っ、仕方ないだろう。こっちはいろいろあってそんなことまで気が回らなかったんだから」
バツの悪そうな顔で言うアキトにダッシュは苦笑。
『そうですね、それではメノウというのはどうでしょう? ラピスと同じに宝石からとりましたが。マスターの性格ですから、ダイアやルビーなんて仰々しい石は苦手でしょうし』
「言ってくれるじゃないか。まぁ、否定はしないが」言って、メノウ、メノウと口の中で語感を確かめるように二度反芻する。「メノウ、悪くないな。ファーストネームはそれでいいとして、ファミリーネームはどうする?」
『そうですね』アキト――いや、メノウの言葉にしばしダッシュは考え込む。『マーブル、というのはどうでしょう? テンカワ・アキトの意識とマシンチャイルドの少女の体が入り混じった、マーブル』
「メノウ・マーブル、か。いいな、それでいこう。今から俺はメノウ・マーブル。アカツキへのメールの差出人はメノウ・マーブルで」
言って、席を立つメノウ。
『マスター、どちらへ?』
「ラピスのところだ。ほんとはここで寝ちまいたいぐらいなんだが、あの子が起きたときに俺が傍にいないと不安になるだろうからな」
『お疲れさまです』そう言うダッシュの言葉は苦笑交じり。『では、マスター。おやすみなさい』
「ああ。おやすみ、ダッシュ。あとのことはよろしくたのむ」
ネルガル重工会長、アカツキ・ナガレは疲れていた。原因は何も目の前の豪勢なデスクに高く積まれた書類の山だけではない。事あるごとに自分の足を引っ張ろうとする社長派や、つい数日前に謎の――ということになっている――敵によって陥落した火星で失われた会社の資産等、彼を肉体的に、そして精神的に疲労させる原因は山のようにあった。
「だから、さぼっているワケじゃないんだよ」
行儀悪くデスクに足を乗せてコーヒーを飲んでいるアカツキは誰に言うでもなく言い訳をした。
「人間、適度に休息をとらなきゃ」
言い訳をする、という時点で自分がさぼっているという自覚があるようなものだが、彼にしてみればどうでもいいらしい。口煩い秘書に見つかったら小言と説教をダースで喰らうことを勘案しても、息抜きは必要だ――彼はそう考えていた。
カップの中を満たしていた漆黒の液体が尽きたことに気がついたアカツキはデスクに投げ出していた足を下ろし、二杯目のコーヒーを淹れようとした。大企業の会長職にあるものがコーヒーを自分で淹れるというのもおかしな話だが、だからといって会長秘書に頼むわけにもいかない。そんなことをすれば、芳醇で苦味のある素晴らしい液体の代わりに、会長秘書の苦い小言を聞かされる羽目になる。彼は必要とあらば苦労を厭わない性格だったが、それでも望んで墓穴を掘ろうとするほど暇ではなかった。
二杯目のコーヒーを淹れ、その香りを楽しみながらデスクに戻ったアカツキは、デスクに据え付けられた端末に自分宛にメッセージが入っていることに気がついた。社内からのそれではない。幾つか持っているアドレスのうち、プライベートアドレスに着信があったことに彼は目を丸くした。
「このアドレスを知ってる人間は多くないんだけどね。どれどれ? 発信者はメノウ・マーブル? …………ううん、覚えがないなぁ」
はて、口説いた女の子にそんな名前の娘さんがいたかな? とアカツキはその二つ名『大関スケコマシ』に相応しい思考を抱いたが、やはり覚えがない。
しばし沈思黙考していたアカツキだったが、意を決してメールを読んで見ることにした。世の中には案ずるより産むが易し、という諺もあることだし。そんなことを考えつつ舌が焼けるほど熱いコーヒーを口にしつつメールを読む。読み進めるうちに彼の顔色がみるみる変わっていく。おもむろにデスクに備え付けられている受話器を手にした。
「あ、エリナくん、ちょっといいかい? え? やだなぁサボってなんかいないって。ちゃんと仕事してるよ。いや、それよりもね、プロス君を呼んでくれないかい? うん、大至急。あ、君も来てくれないかな」
「遅い」
幼いが、整った顔いっぱいに不満を滲ませてメノウは呟いた。場所は電算室、IFS端末の前。機嫌が悪いのを隠そうともせず、自分の丈にあっていない大きな椅子の上でメノウはその顔に剣呑な表情を浮かべて愚痴を零している。
「あれから三日も経ってるってのに、返事ひとつ寄越さないってのはどういうことだ? ダッシュ、送信先間違えたりしてないだろうな?」
『ちゃんとアカツキさんのプライベートアドレスに送信しましたよ。それよりもあまり騒ぐとラピスが起きてしまいますよ?』
ウィンドゥから返ってきた答えに、メノウはむぅ、と唸る。彼女の膝の上ではラピスがすぅすぅと心地よさそうに寝息を立てている。今日に限って寝つきが悪かったため、仕方なしに連れて来たのだ。
自分の膝の上で寝息をたてているラピスの顔をしばし眺めていたメノウは、ふぅ、と溜息をついた。連絡がこないことをダッシュにあたっても仕方ないと気付いたのだ。さらさらとしたラピスの髪を手櫛ですかしつつ、口を開く。
「それで? アカツキの馬鹿は何を愚図愚図しているんだ? ダッシュは何か知ってるか?」
主が落ち着きを取り戻したことに安堵しつつ、ダッシュは答える。
『どうもこちらから得た情報の裏付けをとっているようですね。ミスタ・プロスがNSSを率いて動いています』
「なるほど」メノウは得心がいったとばかりに頷いた。「ヒトから貰った情報を鵜呑みにするような粗忽者じゃなかったな、あいつ」
『そういうことですね』この話はここまで、とでもいいたげにダッシュはそう言った。『それよりも、マスターの体のことですが』
「俺の体?」
ラピスの柔らかな髪の感触を楽しんでいたメノウは、ダッシュの言葉に首を傾げる。
『ええ、マスターのその体のことです。ご存知のように、その体はデータ取りの為に遺跡から採取されたものをはじめとするナノマシンが投与されています。そのおかげかどうか知りませんが、マシンチャイルドとしての特質の他にも、火星で生まれ育った人間と同様のジャンパーとしての能力が備わっています。くわえて、驚異的な膂力も備わっているようです』
ダッシュが言っているのは、メノウが覚醒した際に研究所員たちを次々と屠った件だろう。それを聞いてメノウはなるほど、と納得した。怒りに身を任せていたときは気がつかなかったが、よく考えてみれば十になるかならないか、という身体で人を襤褸雑巾のように引き千切ったりできるはずもない。
『ですが、問題もあります』一瞬、便利な身体だななどと思ったメノウを諭すようにダッシュが言葉を続ける。『はっきりいって破棄することを前提に無茶苦茶な投与をされたマスターの身体は、かつてのマスターと同じ欠陥を背負っています』
「同じ欠陥?」
『ナノマシンの暴走です』
それを聞いたメノウは流石に顔をしかめる。アキトであったころに、自分の身体に巣食うナノマシンの暴走がもたらす筆舌に難い激痛を思い出したのだ。
「どこまでいっても俺はナノマシンに苦しめられるというわけだな」
ぎり、と歯軋りしながら言うメノウ。
『……まぁ、前のように酷いモノだと決まったわけではないですし』メノウの内心を慮ってか、気を使うようにダッシュがいう。『ただ、無茶な行動は控えてくださいね?』
「無茶な行動?」
『はい。マシンチャイルドとしての能力は別ですが、戦闘行為――特に肉体を使った格闘戦などは極力控えてください。たしかに、マスターの身体は並みの人間など及びも使いほどに強力な力を振るうことが出来ます。ですが、基本的には十歳前後の子供の身体なんです。振るうことの出来る力に身体がまったく追いついていません』
「鍛えれば――」
いいんじゃないのか? と続けようとしたメノウをダッシュが一喝する。
『その身体で鍛えたところでたかがしれています。体裁きなどは向上できても、肉体の耐久力なんかはたいして変わりません。いいですか? くれぐれも無茶しないでくださいよ?』
「肝に銘じておこう」
神妙な顔でメノウがそう言った時、彼女の膝で寝息を立てていたラピスが可愛げな呻き声を出しながら目を覚ました。
『おや、起こしてしまったようですね』寝ぼけ眼をこすってメノウの膝の上で欠伸をするラピスにウィンドゥを向けながらダッシュが言う。『しかし、本当に懐かれてますね。傍から見ていると仲の良い姉妹のようです』
言われて、メノウは苦笑。
「懐きすぎのような気もするけがな」膝の上でぽけぇっとしているラピスの頭を撫でる。「だが、まぁ、悪い気分じゃない」
『そうですか……ところでマスター?』
「なんだ?」
『いや、お風呂入ってますか? 見たところ髪にだいぶ油が浮いているようですが』
「――おお」
言われて気がついた。ここ数日何かとやることがあり、顔を洗うぐらいしかしていない。
『「おお」、じゃありません。今のマスターは女性――というか、女の子なんですから身だしなみには気をつけないと。それに、ラピスもお風呂に入れてないでしょう? ネルガルから迎えが来た時に垢まみれの姿で彼らの前に出るつもりですか?』
「女の子、なぁ」メノウは溜息をついた。確かに、この躯は何処からどう見ても女の――少女のものだ。その証拠に、股間には男性器ではなく、未発達とはいえ女性器が備わっている。とはいえ、戻ってくるまでの二十余年を男として過ごした時間はメノウに生半なことで自分が女性であるという自覚を齎さないでいた。むろん、股間に感じる物足りなさは嫌というほど味わっているが。「女の子なぁ」
『女の子です』
「――ああ、疲れた」
豪奢なデスクに顔を突っ伏したアカツキがまったく覇気のない声で唸るように呟いた。ほんの数分前まで、古狸という形容詞がぴったりくるような海千山千の社長派の重役たちと会議を開いていたのだ。
議題はもちろん、メノウ・マーブルを名乗る人物からもたらされたメールの内容についてだ。ダッシュが推察したように、彼はそれをそのまま鵜呑みにするようなことはしなかった。メールを読んだあとですぐに呼びつけたプロスペクターに命じて、そこに記されていた情報の裏づけをとらせた。
結果は、クロ。情報は全て真実だった。前会長と、本来ならその後を継ぐべき兄が死去し、アカツキが会長の座に納まった際に彼の個人的道義感とそれが世間に露見した際に受ける企業イメージの悪化を勘案した結果全廃させたはずの遺伝子研究。それがアカツキにだんまりで続けられていたことや、社長派の各種不正。メールに記されていた通りだった。
アカツキは自分が召集した先刻の会議で、それを社長派に対する切り札として用いた。具体的には、今後自分がこのネルガルという企業の舵を取る際に邪魔のはいらぬよう、彼らの権力を削ぐための交渉の道具にした。秘密研究所での非人道的な研究などは公になればネルガル自体も批判の対象となるので公開するようなことはしない。だが、それでも社長派に対する交渉の道具にはなる。なんといっても、公に出来ぬ研究に金を出すには帳簿をいじらなくてはならない。その時点で後ろ暗いことに違いはないのだ。
アカツキは、そこを突いた。加えて、公にしてもネルガル自体にはあまり影響はない社長派重役の個人的な不正の数々の証拠も握っている。彼が自分のペースで会議を進めることが出来たのは言うまでもない。
とはいえ、相手は自分よりも経歴の長い権謀術策に長けた企業人たち。迂遠な言い逃れをはじめとする各種の抵抗を完膚なきまでに粉砕し、減棒六ヶ月今後五年間のボーナスカット、および会長権限の大幅拡大という結果を引き出すのは流石に骨が折れた。
そういうわけで、アカツキ・ナガレはデスクの前で憔悴しきっていた。
「ちょっと、なにだらけてるのよアカツキくん」
その憔悴したネルガル会長に、喝が飛んだ。声の主は会長秘書のエリナ・キンジョウ・ウォン。ショートの黒髪と見事に着こなしたスーツがよく似合う凛とした雰囲気の美女だ。ただ、難があるとすれば表情に余裕がないところだろうか。
「いやぁ、老人たちの相手で疲れちゃってねぇ」
これで本当に大企業の会長職なのかしら。付き合いのながいエリナですら時折そう思わざるをえない表情と口調でアカツキは弁明。
「まったく往生際が悪いよねぇ、彼ら。馘にならなかっただけでも御の字だと思えないもんかな」
「無理でしょ」
エリナはあっさりと言ってのけた。
「自分たちは会社の利益のために行動したと思ってるんだもの。まぁ、後ろ暗いことに手を染めてたって自覚はあるみたいだから、結局は折れたけど。いい気味だわ」
会議の様子をアカツキの脇で見ていたエリナは鼻で笑った。歳若い女性であるエリナは実力こそあるものの、その性別と年齢のせいで重役たちから軽く見られることが多かった。加えて美人であるために何かとセクハラの対象にもなっていた。そのけして好感の持てぬ連中がやり込まれていく様子は彼女にとって胸のすくような情景だった。
エリナの内心にあるものが何であるか察しがついたアカツキはただ苦笑を浮かべるだけだ。
「さて、残る問題は」
これまで一言も発せずにいた会長室にいるもう一人の人物――赤いベストを着込んだ眼鏡とちょび髭の妙に似合った中年男性が、アカツキに向かって言った。
「メールの差出人の処遇についてですか」
「さて、どうしたもんかねぇプロスくん」
アカツキは目の前の中年男性――ネルガル・シークレット・サービスを統括するプロスペクターに向かってどうとでもとれるような口調で答えた。
「相手は保護を求めてるけど」
「保護しなかった場合は」エリナが苦い物を噛んだような顔で口を挟む。「あのメールに書かれていた情報をマスコミにリークする、ね。どうしようもないじゃない」
ほとんど恐喝よ、とエリナは吐き捨てるように締めくくった。
「まぁ、金銭を要求されているわけでもないですし。結果として社長派の権力を削ることが出来たのですから、はい」
どこから出したのか、電卓を叩きながらプロスは人の良さそうな笑みを浮かべる。
「ま、そうだよねぇ」
同意するアカツキ。そんな彼らの様子をエリナは顔をしかめて見ている。それでも何も言わないのは、彼女もプロスの言っていることに内心に同意しているからだ。
「それでは、保護ということでよろしいですな?」
プロスが、一瞬だけNSSの長に相応しい表情を浮かべてアカツキにたずねた。
「よろしいもなにも」アカツキは茶化すように答えた。「保護しないと、僕ら破滅だしね。せっかく思い通りにやれるようになったっていうのに会社が潰れちゃったら意味がないでしょ。まぁ、それにあれだけの機密を握っている相手を野放しに出来ないからねぇ」
「それでは、保護ということで。はい」
捻くれた表現で方針を伝えた自分の上司に、プロスは苦笑を浮かべつつ頷いた。
「それはそうとして」アカツキは突っ伏していたデスクから上半身を起こすと、極楽蜻蛉だのなんだのと揶揄されることは多いが、少なくても一流の企業人である会長職のアカツキ・ナガレの顔から、大関スケコマシのそれに浮かべている表情を切り替えた。「このメノウ・マーブルって相手、女の子かな?」
お気楽なことを言う上司に、その部下二人は顔を見合わせたあとで、示し合わせたように同時に溜息をつく。エリナにいたっては、「いってなさい、莫迦」と小さく呟いて額を抑えている。
「まぁ、名前の響きからすると女性のように思われますが」
軍隊ではないが、上司のいうことにはある程度付き合わなくてはならない。世のサラリーマンの悲哀を体現したかのように、プロスは答えた。
それを聞いたアカツキは、ううん、と一言唸ってなにやら考え込む。しばらくそうしていただろうか、アカツキはポン、と手を叩いた。
「よし、僕も行こう」
「何処に?」
間髪入れずにたずねたのはエリナ。なにやらよからぬ予感がしている。
「そのメノウくんを迎えに、だよ。今をときめくメガインダストリーであるネルガルを脅しつけた女の子がどんな相手なのか見てみたくてね」
「あのねぇ」エリナがこめかみをひくつかせながらアカツキに言う。「アンタ自分がネルガルの会長だってこと忘れてるんじゃないの? 万が一なにかあったらどうするのよ」
「や、そこらへんはプロスくんとか同行するから大丈夫でしょ?」
「この極楽蜻蛉め」
「はっはっは、いやだなぁ。そんなに褒めてもなにも出ないよ」
「褒めてないわよっ!!」
癇気を爆発させそうな勢いで目の前のお気楽会長を罵るエリナ。その様子を見かねたプロスが二人の間に割って入った。内心で、エリナさんも会長の戯れをさらっと流すぐらいになれば一皮剥けるんですがねぇ、などと思っている。
「まぁまぁ、エリナさん。そんなに心配ならば貴女もついてきてみては? 正直、私だけでは会長の手綱を握るのは骨ですからな」
何気に本人の前で酷い台詞を吐いている。言われたアカツキは椅子の上で体育座りになって、「酷いやプロスくん」などと呟きながらデスクにのの字を書いていた。
「……そう、ね。この莫迦だけだとどんな真似するか判らないものね」
どうもネルガル会長は人望がないらしい。
それは兎も角、明日、件のメノウ・マーブルを保護しに向かうこととなった。
「メノウ、どこに行くの?」
ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら、メノウに手を引かれて廊下を歩いているラピスが感情の乏しい顔でたずねた。問われたメノウは、足を止めラピスに振り返って答える。
「お風呂だよ。俺もラピスも女の子なんだから、身奇麗にしなくちゃいけない――らしい」
他人事のように言うメノウ。もっとも、ダッシュに指摘されて自分の体臭が気になるようになっていたから、入浴に関しては何の異存もない。忙しいといっても、特に体を動かしていたわけではないのでそう汗はかいていない。だが、流石に三日もほうっておけばそれなりに臭って来る。
「ラピスも、髪、油っぽいだろう? 折角綺麗な髪してるんだから、な?」
「わたしのかみ……きれい?」
きょとん、とした様子でラピスが首をかしげた。今まで、研究対象としてしか扱われてこなかったラピスは、他者からそういう評価をうけたことがなかったのだ。
「そうだよ」ラピスの髪を一房手にとって、メノウは言う。「ま、今はちょっとばかり油っぽいけどな」
苦笑しながら答えるメノウ。そのはにかむような表情を見たラピスは、思わず口を開いた。どうして、そんなことを言ったのか自分でもよくわかっていない。ただ、そう感じたから口にした。
「メノウのかみも、きれい」
その言葉に、メノウは目を丸くして酷く驚いたような表情を浮かべた。すぐに笑顔――どちらかと言えば苦笑に近いものではあるが――を浮かべてラピスに礼を言う。
「そうか? う、ん。その、ありがとう」
言いながら、メノウは内心で首を傾げていた。ラピスがこんなに早く他人のことに興味を持つとは思っていなかったのだ。アキトとして過ごしていたころのラピスは、自分とリンクを繋いでもなお、何かに興味を持つという反応を示すのには時間を要したのだ。
やっぱり、同性だからか? それとも歳が近いからか、などと思いつつ、再びラピスの手を引いて歩き始めた。
しばらく歩くと、泊り込みで仕事をこなす職員のためにある浴室の扉の前に着く。メノウがここを訪れるのは、彼女が覚醒し、所員たちを屠った際に浴びた返り血を落とすとき以来だ。
「さ、ラピス。入るよ」
「うん」
扉をくぐり、更衣室に入った二人は置かれているバスケットの中に貫頭服を脱ぎ捨てる。着衣はそれのみだったので、すぐに白くきめの細かい二人の肌が露になる。
二人とも未だ男女の差が少ない、幼少時特有のすとんとした央突のない身体ではあるが、色の白さ、線の細さ――それらが複合的に造り出す造形も手伝って、見るものが見れば一種の神々しささえ感じるに違いない。もっとも、その神々しさを放っている当の二人はそんなことは気にもしていない様子だが。特に、自分が女性であるという自覚をいまいち持っていないメノウはその傾向が著しい。
薄い、とはいえ多少なりとも外気から身を遮っていた着衣を脱いだせいだろう。ここ数日利用者のいなかった更衣室の冷えた空気にラピスが数寸、身を震わせる。
「…………メノウ、さむい」
言って、ラピスは自分と同じように裸身を晒しているメノウに抱きついた。年少者特有の高めの体温を全身で感じ取って、ラピスは、はぁ、と小さく息をつく。
そんなラピスを目を細めて見るメノウは、自分に抱きつく幼女の背を優しく撫でる。
「寒いか? すぐにシャワーを浴びような。暖かいぞ」
簡素な造りの浴室にラピスを伴って入ったメノウは、据え付けられているシャワーの元栓を捻った。給湯器が可能な限りの速さで水を温めているが、流石に出てくる水はまだ冷たい。メノウはそれを、熱すぎず、かといってぬるいということもない温度になるまで流れる水に手をあてながら調整する。
「…………?」
と、そうしていると、ラピスが先ほどよりも強く自分にしがみついてきた。けして水の冷たさに起因するものではない震えを起こしている。見れば、血が滲むほどに唇を噛み、顔を青くしている。
――――しまった。
メノウは自分の犯した過ちに気付いた。かつて、自分の知るラピスは人工羊水の中で体を弄ばれた経験からか、水を極度に恐れていた。そのため、入浴の際に自分が付き合わねばならなかったほどだ。このラピスが同じであったとしても何の不思議もない。
ぎり、と歯軋りする。ここ数日、あれこれとやることや考えることがあったとはいえ、こんなことに思い至らない自分に嫌悪感がつのる。ラピスの保護者たらんと欲したはいいが、果たしてこんなことでそれを勤め上げることが出来るのか。
メノウが内心で懊悩している間にも、ラピスは怯えた様子でメノウにしがみついている。刷り込まれた恐怖からくる震えが、嫌というほど伝わってくる。
悩んでいる場合じゃないな。メノウはかぶりを振った。反省するのも後悔するのも後回し。今は、幸せにしてみせると誓ったこの愛らしい幼女を安心させなくては。
「大丈夫」
しがみついているラピスをそっと抱き、その頭を撫でながらメノウは優しく語りかける。
「恐いことなんてないんだ。もし、怖かったとしても、俺が傍にいてあげるから」
慈しむように言うメノウを、ラピスは潤んだ瞳で見る。そこには、限りなく優しい表情を浮かべた自分と同じ瞳の色をした少女がいた。無言で、その言葉を自分のうちに染み込ませる。正直な話、身体と心の奥深くに刻まれた水への恐怖は微塵も薄れていない。だが、それ以上に目の前にいる少女の言葉は自分の心を優しく包み、支えた。
しばしの沈黙のあと、ラピスは、「ん」と呟き頷いた。
「いい子だ」
怯えながらも、自分の言葉を信じた幼女にメノウは優しく呟いた。シャワーから吐き出されているものは、何時の間にか適度な温度の温水になっていた。
幾つもの水滴の集合体であるそれの温度を確認したメノウは、縋るような表情でこちらを見ているラピスの顔を覗き込むようにして言った。
「怖くないから、な」
「ん」
自分の言葉にラピスがこくん、と頷くのを見て取ったメノウは、なるたけラピスを刺激しないようにゆっくりと彼女の頭頂部に温水を注ぐ。
だが、いくら注意しようと刻み込まれた恐怖を緩和できるわけではない。自分の身体に温水が降りかかった瞬間、ラピスははたから見てもそれと判るほどに身体を強張らせた。
その様子を見たメノウは、一瞬、ひどく悲しげで憐れむような表情を浮かべたが、すぐに慈愛に満ちた表情に切り替えて、震えるラピスの頭を撫でた。
「あ…………」
歯をがちがちと鳴らして恐怖に耐えていたラピスは、不意に与えられた感触に、声を漏らした。何処か深いところにこびりついたものは未だに彼女を苛んでいるが、それでも、与えられた感触はそれを優しく癒していく。震えが小さくなっていくのが自分でも判った。
「大丈夫だから、な」
耳に届くその言葉が、真実信じることが出来た。自分を優しく包んでくれるこの年長の少女がいれば、自分は恐怖から逃れることが出来る――そうおぼろげに思えた。
湯気の篭る浴室で、メノウはラピスの髪を包んでいたシャンプーの泡を流し落とした。所員が買い置いていたのだろうそれが作り出す心地よい香りの泡を綺麗に流し終えると、その下から磨きぬかれた宝石のような美しい薄桃色の髪が姿をあらわす。
「これで、髪の毛は綺麗になったな」
自分とラピスの髪の毛を洗い終えたメノウはふぅ、と一息ついた。ラピスもメノウも、腰まで届くほどの長さの髪をもっており、それを洗うのは中々に大変な作業だった。とはいえ、これで終わりというものでもない。
「まだ、おわりじゃない?」
飼い主に身体を洗われる仔犬のようにメノウに髪を洗われている間、じっとしていたラピスが首を傾げながらたずねた。
「そうだな。身体も洗わないといけないから、あともう少しだ」
幾らか慣れたとはいえ、やはり水――温水だが――にうたれつづけることには抵抗があるらしいラピスに、メノウはあやすように言って、自分とラピスの長い髪を手早く纏め上げる。このあたりの作業は、かつてラピスと一緒に何度も入浴した経験がものを言っている。もっとも、自分のそれを纏める際にはいくらか勝手が違ったようで、多少もたついたが。そうして、メノウはシャンプーと同じように買い置かれていたボディソープの容器を手に取った。スポンジの中に容器からボディソープを流して泡立てると、ラピスの身体を洗い始める。
白磁のような肌を、同じように白い泡が覆っていく。
既知のようでいて、未知の時間だった。たしかに、かつてラピスと共に入浴したことはあったが、直接身体を洗うようなことはしなかった。いくら歳の差に開きがあるとはいえ、女の子の身体を洗うということに(まったく健全な)抵抗感を覚えたからだ。だが、今のメノウの中にはかつて覚えた抵抗感はかけらもない。いや、いくらか抵抗感はあるが、それでもこの場にラピスの面倒を見ることができるのは自分しかいないという義務感のようなものが強い。身体を洗われているラピスは、初めての感覚にやや戸惑っていたが、それでもすぐに気持ち良さそうになされるがままになっている。
そのラピスを目を細めて見ていたメノウ。観察力に長けたものがその場にいたとしたら、微笑む彼女の表情の中に僅かばかりの翳りを見て取ったことだろう。
心が、ざわめく。
メノウの内心に、なにか言い表しようのない感情がじくじくと滲んでいる。
――この感情は、何だ?
メノウは自分の心のうちに生じた感情に戸惑っていた。
この感覚はなんだろう。
判らない。どうして、俺はラピスの身体を見て心動かされているのだろう。
メノウは気付かなかった。いや、気付こうとしなかった、というほうが正しい。自分が護ると誓った少女の裸身を見て欲情しているなどという事実は、彼女にとって容認出来るものではない。
だが、それでもメノウは自分の裡を泥のように満たしていく感情がなんであるか察していた。そして、目を背けたくなるような事実に驚愕している。
スポンジをラピスの身体に這わせている手が震える。
小柄な自分の身体でも包み込めそうなラピスの幼い肢体に、
その薄い桃色の髪に、
自分を信じてやまない信頼を浮かべる金の瞳に、
どうかしてしまったのでは、と思うほど心乱される。
何時から、自分は幼児性愛者になったのだろう。少なくてもかつてラピスと過ごしていた時にはこのような感情を抱いたことはなかった。自分の復讐に巻き込んでしまったことに対する慙愧の念や、不遇な生い立ちに対する同情、触れれば崩れてしまいそうな儚さに庇護欲を抱いたことはあったが、性欲を抱いたことは一度もなかった。
「んっ」
と、ラピスのあげた少しだけ大きな声に、メノウはその身体をびくりと硬直させた。
今、俺は何をしていた?
メノウの顔には驚愕の二文字であらわされる表情が浮かんでいた。
――――どうして、俺はラピスの性器に指を這わせている!?
ぴくりとも動かぬメノウの硬直した身体。その指先は、まったくの未発達で線と表現できるラピスのスリットにあてがわれていた。ラピスが声をあげたのは、自分のスリットに指を這わされたからのようだ。
性的な知識をもたないラピスは、メノウの行為が自分の身体を洗うためのものだろう――そう認識していた。あるいは、何か妙なことをされている、とも思えなくもないだろうが、試験管の中から自分を助け出し、名前を与えてくれたメノウを疑うということをラピスは知らない。
だから、何の疑いも持たぬ双眸で固まっているメノウを見つめた。
「――――――ッ!?」
絶対的な信頼を込めた瞳で見つめられたメノウは、思わず息を呑んだ。自分は、何をしている。
「メノウ、どうしたの?」固まったまま、顔を歪めているメノウに、ラピスが言葉をかけた。「きぶんわるいの?」
「――ちが、う。いや。うん、大丈夫だ、大丈夫だよ、ラピス」
無理矢理に笑顔を浮かべて、メノウはラピスに答えた。かつては、他者の状態――それがアキトであっても――に関心を示すのにどれだけ時間がかかったかを知っているメノウには、予想外の反応だった。外界――といっても、研究所の中だが――に連れ出されたのがかつてよりも早いのが原因なのだろうか。なんにせよ、歓迎すべきことであった。
――――自分がこのような状態でさえなければ、だが。
疼く。
身体の奥の何処かが。
欲しい。
目の前にいるビスクドールのような美しい幼女が。その身体が。
シャワーから吐き出される温水がもたらす熱以外の何かに身体を火照らせながら、メノウは自分の裡で蠢く欲情を必死の思いで押さえつけた。
辛うじて自分を突き動かそうとする衝動を堪えたメノウは、手早くラピスの身体を覆うボディソープの泡を流し落とすと彼女を連れて浴場をあとにした。正直なところ、これ以上ラピスの裸身を前にして自分を押さえつける自信がなかった。
「は、ぁ――」
初めての入浴に疲れたのだろう。すぐに眠りについたラピスを後に寝所としている仮眠室を出たメノウは、その扉の前でぺたりと尻餅をつくように座り込んだ。寝付いたラピスの顔を見ているだけ、浴室で覚えたあの欲求が首をもたげてくる。そして、それと同時に昂ぶってくる自分の身体。逃げ出すようにしてラピスの前から退いたメノウは、仮眠室を出た直後、一歩も動けなくなっていた。
苦しい。
メノウはひんやりと静まり返る無人の廊下で一人喘いだ。
苦しい。身体が、思うように動かない。
熱病に罹ったように火照る身体に、メノウは困惑していた。そっと自分の身体を抱きかかえようとして――
「ひっ!?」
怯えたような声をあげた。
自分の手がその身体に触れた瞬間、雷に打たれたかのように、衝撃が全身の神経を駆け巡った。快感。衝撃の名前はそれであった。
一瞬、自分の手が身体に触れただけだというのに、まるで妙な薬でもきめてしまったかのような快感がメノウの身体を襲った。果たして、それがスイッチだったのか。浴場でラピスの肢体に獣欲を覚えて以来押さえつけていたものが、一気に開放された。
黒の王子であったころの残滓である、ともすれば冷徹さと紙一重の理知的な瞳の色は何処かに消え失せ、メノウの双眸にはそれを見る者がいたなら思わず息を呑んでしまいそうになる艶を含んだ色が浮かんでいた。
そっと、貫頭衣の下の素肌に指を這わせる。
「ふぁっ」
再び、メノウの全身に快感が走る。だが、メノウにそれを忌避する様子はない。むしろ――
「ん、ぁはぁ……」
全身が性感帯と化したような有様の自分の身体を、貪るようにして指を這わせ続けている。
無機質な蛍光灯の光に照らし出された廊下で、年端もいかぬ少女が快感を貪っている。白磁のような白い肌を桜色に上気させたメノウが、熱を含んだ声を漏らしながら、自分の身体を弄んでいる。
腹部を、小さいながらも硬くなったニップを、その指が這い、抓る。その度にメノウは身体をがくがくと痙攣させて、色に溺れる。
やがて、にちゃり、と廊下に粘性の水音が響いた。
「ひぁ――」
メノウの口から、淫靡な喜びの声が漏れる。何時の間にか濡れそぼった自身のスリットに指を這わせたのだ。
「は、ぁ……ひぅっ」
陰唇の未発達な割れ目としか表現できないメノウの女性器を、なぞるようにして彼女の指が這う。男性器から得られるそれとは、まったく別種の、いまだかつて得たことのない未知の快感がメノウの躯を、神経を、脳を犯していく。
気持ち良い。
それだけがメノウの脳裏を占めていた。
ラピスに欲情したことへの戸惑いや、訳もわからずに抑えることの出来なくなった性欲に対する困惑は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
気持ち良い。
ただ快感を貪る――今のメノウは、ただそれだけを欲する一匹のケモノとなっていた。
「はひっ!?」
這わせていた指を一本、スリットに潜り込ませたメノウが一際大きく啼き、びくりと身体を仰け反らせる。無論、指は止まらない。ぴちゃり、ぴちゃり、と淫猥な水音を廊下に遠慮なく響かせながら、自身のスリットへと指を抽挿させる。
「う、あ、あ、あ――――」
スリットの奥にある柔らかい膣壁を白魚のような指が刺激する度に、色に狂ったメノウの嬌声が紡ぎだされる。
激しくなる抽挿、それに比例して次第に粘性を増していく水音。幼い少女が、狂ったように快楽を求めている光景は、異様であり、それと同時に言い表しようがないほどに卑猥だった。
やがて、メノウの口から漏れる嬌声がオクターブを増してくる。いうなれば、それが彼女の感じている快楽のバロメーターといったところか。鈴の音色を思わせる声が、肉欲のもたらす快楽でひずんでいた。
「あ、あ、あ…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ――――」
一際高く嬌声を発すると、メノウはぐったりとして動かなくなった。どうやら、達してしまったらしい。時折、びく、びく、と痙攣を起こすメノウは、先ほどまでの狂態が嘘のように静かになっていた。
痛いほどの静寂が廊下を支配する。廊下には、唯一、彼女が狂っていた証拠である色に溺れた雌の発する体臭だけが漂っていた。
『なにか酷く浮かない顔をしていますが……どうかされましたか、マスター?』
そう問うのはウィンドゥ越しにメノウの様子を覗くダッシュ。IFS端末の前に座る自分の主がなにやら落ち込んでいるのを見ての発言である。
「…………」
一方、問われたメノウはというと、端末に接続してダッシュを呼び出してからこちら、どんよりとした雰囲気を放ちながら俯いたまま一言も発していない。
『あの、マスター?』
「…………」
無言。ダッシュの問いが聞こえていないかのように、メノウは沈黙を保っている。
『マスター、その、黙っていらしては何も判らないのですが』
「…………」
再度の問いかけにもメノウが返す反応はやはり無言。ダッシュは、自身が人間であったならば溜息のひとつでもつきたい気分になった。そして、ふと思いつく。
『もしかして、ラピスと何かありましたか?』
ダッシュにしてみれば、自分の主が落ち込むような理由はラピス・ラズリと何かあったぐらいしか思いつかない。特に、他との接触が皆無といっても過言ではない今の状況では特に、だ。
「――――!?」
一種、カマをかけてみたようなものだったのだが、メノウの反応は実に判り易かった。ラピスの名をダッシュが口にした途端、弾かれたように顔をあげたのだ。その反応を見て、ダッシュはやはりか、と思う。
数瞬、目を丸くして自分の目の前に開いているウィンドゥを見たメノウだが、すぐに気まずそうに目を逸らす。ダッシュはそんな自分の主に声をかける。
『マスター、よろしければ話していただけますか? お力になれなくないとも限りません』
まさか人工知性体である自分が人生相談をする羽目になるなんて、と内心で苦笑しつつ項垂れている主に言った。その言葉にメノウは、ゆっくりと顔をあげ、内心の逡巡を表すかのように視線を左右に泳がせると、小さな声でぽつりぽつりと語りだした。
主の告白をあますとこなく聞き終えたダッシュは、なるほどメノウの落ち込みようも無理はないかと思った。かつての、黒の王子であったころの主は、ラピスに対して慈父の如く接していた。無論、そこにはラピスの生い立ちに対する同情や、自分の復讐の片棒を担がせたことによって陽のあたる場所を歩けない道を歩ませたことに対する慙愧の念が起因している。そして、今のメノウである主は、前述した感情に加えて最後の戦闘でラピスを死なせてしまったという負い目もあって、今のラピスを世界に二つとない宝石のように大事に思っている。それをケモノじみた欲情に任せて汚してしまいそうになったのだ。落ち込むなというほうが無理だろう。
だがしかし。
ダッシュは思考する。だがしかし、何故、メノウはラピスに対して欲情したのだろうか。かつての主は、ラピスのことをいとおしく思っていた。それは間違いない。だがその感情は慈父としてのそれであり、けして男が女にむけるそれではない。加えて、かつての主は男女間のそうした感情にいまいち薄いというか鈍いところがあった。まぁ、復讐に身を焦がしていたころはエリナやイネスと関係を持っていたが、あれは相手が主に望んで結ばれた関係だった。
だからこそ、判らない。
何故、今、メノウがラピスに対して性欲を抱いたのか。
項垂れる主を見つめながら、ダッシュはその全能力を用いて思考する。
『マスター』不意にダッシュが口を開く。『お体を調べさせていただいてもかまわないでしょうか?』
「…………かまわないが」ダッシュの唐突な提案に、メノウは少しばかり嫌悪感を滲ませて答える。どうにも、検査だなんだという語彙に抵抗を覚えてしまうらしい。もっとも、ダッシュが自分を実験体扱いした研究者たちのような気持ちでそれを口にしたことは判っているから拒絶はしない。「どうやるんだ?」
『IFSを通じて、マスターのお体を走査させていただきます。体内に存在しているナノマシン群からマスターの肉体情報を読み取って、こちらとそちらの研究所のデータバンクの情報に照会して診断させていただきます』
「便利なもんだな」半ば呆れたようにメノウは言った。「だが、なんのために?」
『考えてみたのですが』ダッシュは腕組みでもしそうな口調で続けた。『マスター、ペドフェリアじゃないですよね?』
「…………殴るぞ?」
握った拳をウィンドゥの前にかざすメノウ。無論、ウィンドゥを殴りつけたところで何の意味もないのは言うまでもない。あくまで冗談だったら許さないという意思表示に過ぎない。
『おかしいんですよ』メノウに詫びも言わずにダッシュは言った。『テンカワ・アキトであった頃のマスターに、ラピスに対して欲情していたような兆候は見られませんでした。それならば、どうしてメノウ・マーブルはラピスに欲情したのか? 私はその答えがますたーの肉体にあるのでは、と考えたんです』
「俺の、身体に?」
『ええ。兎に角、一度調べさせてください。そちらに残っている記録だけでは判断しかねますので』
「判った」
「ナノマシン・スタンピート?」
数分後、メノウはウィンドゥのダッシュに向かって驚いたような声を返していた。
『はい、マスター』ダッシュが目を丸くしているメノウに答える。『マスターの体内に存在しているナノマシンのログと、体内に残留している各種ホルモンを始めとする痕跡を解析した結果、ラピスに対して抱いた性欲や、その後、収まりのつかないほどに高まった昂ぶりはナノマシンの暴走が引き起こしたものだと推察されます』
事務的な口調で報告するダッシュの言葉を、メノウはあんぐりと口を開けて利いていた。
「な、なんてふざけた結果なんだ」
『いや、まぁ、前みたいに暴走するたびに命の危険に晒されるようなことになるよりはマシだと思いますけど』
「――そりゃそうだが」ダッシュの言葉に頷きながらも、何か納得がいかないというように憮然とした表情でメノウは呟く。「でも、やってられないな。なんか」
眉をしかめながら言うメノウに、ダッシュは苦笑を浮かべたような口調で言葉をかける。
『でも、おかげでラピスを遠ざけなくてすみますよ? マスターのことですから、ラピスを傷つけないために御自分からラピスのことを遠ざけようとか考えていたのではないですか?』
どうやら図星だったらしい。ダッシュの言葉に、メノウは一瞬目を丸くしたあとで苦笑を浮かべた。
「いや、楽しみだねぇ」
黒塗りのリムジン、その後部座席にゆったりと身体を沈めるアカツキはのほほんとした調子で言った。その様子を見ていた彼の対面に座るエリナが眉をしかめる。
「あんた、もうちょっと緊張感ってものを持ちなさいよ」
彼女の認識では、これから向かう場所にいるのはネルガルの命運を左右する情報を握った人物である。ましてや、恫喝まがいのことをやってのけた相手。あまり好印象を抱いていない。第一、保護を求めているとはいっても、他にどんな要求を突きつけてくるか判ったものではないとあっては否応なく身を引き締めざるを得ない。だというのに。エリナは溜息をつきたくなるような心境で思った。この極楽蜻蛉のお気楽な態度ときたらどういうわけだろう。
「だってねぇ。僕らはいわば俎板の上で調理されるのを待ってる鯉みたいなもんなんだからさ、いまさらジタバタしても仕方ないでしょ? ねぇプロスくんもそう思わないかい?」
「そうですなぁ。加えて言えば、相手はその気になればネルガルを潰す事が出来るわけですから。それをしてこない、という時点で多少は安心出来るのでは?」
まぁ、会長はのほほんとしすぎという気もしますが、と小さく付け加えるプロス。
「気もする、っていうかあきらかにのほほんとしすぎよ」
ネルガルトップの二人の見せる態度に、エリナは頭痛を堪えるように溜息をひとつ。内心で、ああ、私がしっかりしなきゃ、などと思っている。もっとも、アカツキにしろプロスにしろ、彼女が思っているほど余裕を持っているわけではない。ただ、それを外に出しても一文の得にもならないどころか、これから対面する相手に舐めてかかられるのを防ぐためにあえて崩れた態度を保っている。能力はあるが、何処か余裕のないエリナはそのことに気付いていない。
「まぁまぁ、エリナさんも。お、どうやら着いたようですな」
エリナを宥めたプロスが言う。それと同時に、リムジンが停車した。エリナが車窓から外を覗くと、窓のない背の低い建物がそこに存在していた。
「さて、いきますか」
どこまでものんびりとした調子で言うアカツキの台詞に緊張感が漲っているのは気のせいではないだろう。もっとも、それに気付いたのはプロスだけだったが。
「アカツキたちが?」
目を覚ましたラピスを膝の上で遊ばせていたメノウが顔をあげた。
『はい。たった今、研究所の正門にリムジンで』
言いながらダッシュがウィンドゥに監視カメラの映像を映し出す。そこにはリムジンから降りようとしているアカツキたちの姿が映っていた。
「まさか会長自らお出ましとはな」
呆れたように言うメノウだったが、自分の身分を隠して〈ナデシコ〉に一パイロットとして乗り込んできたことを思い出し、そういえばそういう奴だったな、と内心納得している。
「かまわん、ここに案内してくれ」
「勝手に開きましたな」
プロスが玄関に据え付けられたカードキーのスロットにカードを通す前に扉がスライドしたことに驚いたように口を開く。
「どうやら僕らが着いたことは判っちゃってるらしいね」
肩を竦めながら言うアカツキ。
「何をぐずぐずしてるのよ。さっさと行くわよ!」
ぷりぷりと肩を怒らせながら言うエリナが、自分たちを誘うように開かれた玄関の前で立ち尽くしている男二人を先導するように足早に中に入る。それを見ていたアカツキとプロスは顔を見合わせたあとで、苦笑を浮かべるとエリナのあとに続いた。
さて、相手は何処にいるのやら――そう思って歩くアカツキたちであったが、迷う必要はなかった。進まなくていい方向の防火扉が下りていたり、進むべき方向にだけ廊下の照明が照らされていたり、と相手がなんとはなしに自分たちを導いていると理解できたからだ。それにしても。
「誰も出てこないわね」
三人の疑問を代表するようにエリナが言った。口調にはいくばくかの困惑が含まれている。
「人の気配がまったくないですな、はい」
社長派からぶんどった資料を見る限りでは少なくない人数が勤めているはずなのですが、とプロス。まさかそろって休暇というわけでもないだろう。背中に冷たいものが流れる。何より気になるのは、研究所のそこかしこにこびついている微かな血の匂い。果たしてここで何があったんでしょうね、と顔には出さずにプロスは警戒心を強める。
そうしてどれくらい歩いただろうか。
三人の足が電算室と銘打たれた扉の前に差し掛かったとき、
「開きましたな」
「開いたねぇ」
「開いたわ」
扉が勝手に開いた。中から三人に対して声が飛ぶ。
「ようこそ。まさかネルガル会長自ら迎えにくるとは思ってなかった」
自分たちを謁見の許された庶民を睥睨するような貴人を思わせる態度で見る相手が年端も行かぬ少女であることに気付いたアカツキたちは、驚いたように目を丸くした。どうやら、かなり間の抜けた表情をしていたらしい。少女はそんなアカツキたちを見てくつくつと笑い声をあげた。膝の上の更に年少の少女の頭を撫でながら、道に迷った少女に笑いかけるチシャ猫のような表情でアカツキたちの様子を見ている。
「もしかして」混乱から立ち直ったらしいアカツキが口を開いた。「キミがメノウ・マーブルちゃんかい?」
「初対面の相手をちゃんづけするのはどうかと思うがな。ああ、その通りだ。俺がメノウ・マーブルだ。始めまして、ネルガル会長。お会いできて光栄だ。ああ、有能な会長秘書にNSS長も」
透き通るような笑みを浮かべていうメノウ。さりげなく自分が三人の素性を知っていることを知らせている。
「いやはや、私たちのことをご存知のようで」
うっすらと額に浮いた汗をハンカチでぬぐいながら、それでも笑顔を崩さないプロスが言う。見た目に騙されると痛い目にあいそうだ、と思っている。
「そこの会長さんは有名人だからな。あとの二人はネルガルのコンピューターにアクセスした時に、な」
悪戯を告白する悪童のような表情でメノウは言った。もっとも、その瞳には悪童がけして持ち得ぬ怜悧な光が浮かんでいたが。
「やれやれ、ウチの人事部のプロテクトはかなり甘いらしいね」肩を竦めるアカツキ。内心の動揺はおくびにも出さないのは流石といったところだろうか。「それにしても天下のネルガルを脅しつけた相手がこんな可愛い女の子だとは思いもしなかったよ」
「――? ああ、そうか」一瞬、アカツキの言ったことが理解できなかったメノウだが、今の自分が少女――それもとびきり容姿の整った少女だということを思い出して納得する。「ふん、褒めても何も出てこんぞ?」
薄桃色の髪の少女をあやしながら、メノウは笑った。
「いやいや、可愛らしいのは事実だからね。ところで、そちらのお嬢さんは妹さんか何かかい?」
「まぁ、そんなところだ。素性は……判るだろう?」
金色の瞳に冷たいものを浮かべていうメノウ。子供の出す雰囲気じゃないね、こりゃ。内心で嘆息しながらアカツキは肯首した。
「マシンチャイルド、かい」
「非合法の、な」
「それで、メノウさんはネルガルに何を望んでいらっしゃるので?」
気持ち下がった部屋の空気を変えるように、プロスが口を開く。それを聞いて、メノウが片眉をあげる。
「メールに書いておいたはずだが? 俺がネルガルに望むのは、俺とラピスの絶対的な安全の保証。ただそれだけだ。まぁ、戸籍を作ってもらったりと他にもいろいろとしてもらいたいが、一番はそれだな」
「それだけ?」
アカツキが肩透かしを食らったような表情でたずねた。
「それだけ、だ」メノウは肯首。「俺たちみたいな存在には、それが何より重要なんだよ。お前も俺がメールに添付しておいたここでのマシンチャイルドの扱いについて読んだろう?」
「なるほどね」アカツキは納得。「そりゃそうだ。うん、いいよ。キミやその子の安全はネルガル会長の名にかけて僕が保障する。もちろん、キミが掴んだネルガルの後ろ暗いところは他言無用という条件で」
「受け入れていただいて助かる、ネルガル会長」
「僕のことは役職じゃなくて名前で呼んでほしいな、メノウちゃん」
白い歯を光らせながら笑顔で言うアカツキ。それを見て、メノウは目を丸くしたあとで苦笑。
「子供を口説くつもりか? 流石は大関スケコマシってところだな」
今度はアカツキが苦笑する番だった。
「やれやれ、そんなことも知ってるのかい?」
「有名だからな」
付き合いがあったから、とは流石に言わない。と、メノウが怪訝そうな表情を浮かべる。アカツキはどうかしたのか、と彼女の見ている方に視線を向けると――
「――――」
そこにはエリナがいた。なにやら肩を震わせている。もしかして、自分抜きで話を進められて怒ったかな? 冷や汗をかきながらアカツキは思った。いや、しかし、僕の知ってるエリナくんは無視されたら呼んでもいないのに首を突っ込んでくるような性格なんだけど、今日は何も言ってこないな。はて、どうしたことやら。
エリナ・キンジョウ・ウォンは、メノウ・マーブルという人物に対して一言物申すためにアカツキに同行していた。いやもちろん、極楽蜻蛉な会長の手綱を握っておくということもあったが、まずはそれだ。ネルガルに対して脅迫まがいのことをしてのけた相手に、こう、いつもの調子で嫌味のひとつふたつ、下手をしたらダース単位でぶつけてやろうと思っていた。
だがしかし。
そんな気持ちはメノウを見た瞬間に綺麗さっぱり消え去っていた。
――――可愛い。
その第一印象はこれに尽きる。
誰がなんといっても可愛い。見紛うことのない美少女、それが目の前にいる。
バリバリキャリアウーマンな外見に反して、エリナは可愛いものに目がなかった。誰にも知られていないが、自室にはこう、ファンシーな小物やらぬいぐるみが所狭しと置いてあったりする。
――――可愛い。
そんなエリナにとってメノウは直球ど真ん中でストライクだった。むしろ三球三振バッターアウトスリーアウトチェンジだ。下手をするとノーヒットノーランかも知れない。
――――可愛い。
そんな直球ど真ん中なメノウだというのに、それが同じように可愛らしいというか愛らしい薄桃色の髪の少女を膝の上に乗せてあやしていたりする。
――――可愛い。
反則である。パンツの中に隠し持った栓抜きよりも反則である。
――――可愛い。
ああ、もう我慢ができない。
「エリナくん?」
アカツキは何か様子のおかしなエリナに声をかけた。が、エリナには聞こえていないようだ。俯き、肩を震わせている。視線をメノウにむけると、こちらもどうやら困惑している様子。
「――――いい」
「は?」
エリナがぼそり、と呟いた。
「エリナくん?」
「――――わいい」
「あの、エリナくん?」
「可愛い!!」
そう叫ぶやいなや、カタパルトで射出される艦載機よりも、魚屋の軒先にならぶめざしをかっさらう野良猫よりも早くエリナが動いた。おそらく、目にもとまらぬ、という表現はこういうときに使うのだろう。武道の達人のように一瞬で間合いを詰めたエリナは、椅子に座るメノウとその膝の上のラピスに抱きついて人が変わったようにだらしのない笑顔を浮かべて二人に頬擦りしている。
「ぬわ!? ちょ、ちょっと!?」
いきなりのエリナの行動に目を白黒させてメノウが何か言おうとしているが、エリナはお構いなしにメノウとラピスの感触を楽しんでいる。
「あーもう、可愛い可愛い可愛い! どうしてこんなに可愛いのよ!! 反則よ反則!! おまけにぷにぷにして気持ちいし!! 可愛くてぷにぷにしてるなんて最高よきゃー!!」
「…………エリナくんが壊れた」
「…………ですな」
「いや、見てないで助けろよ、おまえら」
メノウとラピスが開放されたのはそれから一時間後だとか、研究所から出たあとにエリナが強引につれていったブティックでメノウとラピスが閉店まで着せ替え人形になったというのはご愛嬌。
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