無題どきゅめんと


「結局、ネギくんは危地を逃れた――そういうことかの?」

「なんで俺に聞くんだよ」

 横島・多々緒は呆れたように、なにやらデスクで書類に決裁印を捺印している学園長に答えた。時間は、朝のH・Rがあけた一時間目の真っ只中。場所はもちろん、妖怪ジジイこと学園長の執務室である学園長室であった。自分の課業がないことをこれ幸いとばかりに、横島は学園長室のソファでくつろぎながら一服していた。どうやら、応接用のソファの座り心地を気に入ったらしい。これで目の前にジジイがいなけりゃ最高なんだが――ついでに横にしずな先生が侍っていたりすればパーフェクト。

「アンタなら、この学園で起きた出来事は大抵知ってるだろーが」

「ふむ」自分の外套と短剣を操る手の長さと、その多さを周知している横島に韜晦は無駄と悟ったのか、学園長は捺印していた学園長印をデスクの片隅に置くと、顎鬚をしごきながら答えた。「ネギくんの周囲には、なるたけ魔法先生や警備員を配置しない措置をとっているからのぉ。彼の身の回りのことに関しては、それほど情報が集まらんのじゃよ」

 どうしてそういう措置を取っているのか、という説明はせずに、学園長は横島に言った。その言葉を聞いた横島は、くっ、と唇を歪めて思う。はン、ネギ一人に片付けさせようってハラか。万が一にでも、見るに見かねた魔法先生――人の良いタカミチあたりが、ネギの手助けをしてしまわぬように。そうでなければ、学園の裏側、その治安と秩序の維持を司る魔法先生や警備員――つまり、学園長の外套と短剣たちの配置状況に空白を作ったりするはずがない。ホントのホンキでネギに試練を与える気でやがる、このジジイ。学園の治安を等閑にしてまで、この状況を作り出す学園長に、横島はその覚悟の度合いを思い知った。

「で、当のネギ先生は今日はどうしておるのかの?」


「――――ネギ、と」職員室から3−Aへと向かう廊下の途中で見知った顔と一緒になった横島は、その奇妙な光景に首をかしげながら声をかけた。「神楽坂さん、だっけ? ええと、その有様はいったい?」

 横島の視線の先には、出席番号8番、神楽坂・明日菜に米俵のように担がれているネギ・スプリングフィールドと、その様子を面白そうに眺めている、明日菜と同室の出席番号13番、近衛・木乃香の姿があった。無論、その周囲には、彼女たちが作り出している珍妙な光景を何事かと興味深そうに見る生徒たちの視線。

「あ、横島――センセイ、おはようございます」

 人外じみたプロポーションを誇る横島に、一瞬気後れした明日菜が、横島に挨拶する。

「ええ、おはよう、神楽坂さん」ツインテールを揺らしながらちょこんと頭を下げた明日菜に挨拶を返して、横島は改めて問うた。「で、ネギ――先生、その有様はどういうことなんですか?」

「あぅ、た、タダ――横島先生」生徒たちの前ということで、呼び方を改めたネギは、半泣きの表情になって言う。「じ、実は――」

「ちょっ、ネギ!?」

 事情を――魔法に関る事情をあっさりと説明しようとしたネギに、明日菜は慌てて彼の口を塞ぎにかかった。他人に魔法使いだと知られたらオコジョ、という魔法使いのルールをネギから聞かされていたが故の行動だった。

「ぷぁっ!?」行き成り口を塞がれたネギは、一瞬目を丸くしたあとで、頭を振って明日菜の手から逃れた。「い、いきなり何するんですか、明日菜さん!?」

「ネギ、オコジョ! オコジョ!!」

「んー? オコジョ? どこにいるん、アスナ?」

「え? あ――――、 ほら、アソコ!!」

 自分の言葉――魔法という単語を口外せずにネギに注意を促すための言葉に反応した木乃香に、明日菜は慌てて明後日のほうを指差す明日菜。つられて、どこどこー? と視線を移す同室の少女の様子に明日菜は溜息をひとつ。そんな明日菜の姿に、ネギは、あっ、と小さく声をあげた。

(ネギ、アンタ、バレたらオコジョとか言っておきながらいきなりバラそうとしてんじゃないわよ!)

(あ、すいません――)

 小さく囁く明日菜に、ネギは詫びを口にして――

(でも、横島先生――タダオはボクが魔法使いだって知ってるんです)

 その告白に明日菜は目を丸くし、慌てて視線を移す。その視線の先には、

「なるほどね」

 整った顔に、小さく苦笑をを浮かべている横島の姿があった。黒縁のブリッジを弄びながら、ネギと自分を交互に見る横島の視線に、妙な居心地の悪さを感じる明日菜。と、その視線のぬしが不意に口を開いた。

「まぁ、詳しい事情はおいおい聞くとして――」横島は、腕に嵌めた安物の腕時計をちらりと示して言った。「とりあえず教室に行きましょうか? ネギ先生。担任と副担任が揃って遅刻したら示しがつきませんから」


「みんなおはよ――――っ」

「あ〜〜〜〜ん!?」

 なおも愚図るネギの頭を引っ掴んで、明日菜は教室に入る。その後ろを、二人の様子を見て、面白がっている木乃香と、苦笑を浮かべている横島が続く。元気の良い明日菜の挨拶に、クラスメイトの数名が反応し、挨拶を返してきた。

「あ、横島センセーもオハヨウゴザイマスー」

「はい、おはよう――――と、佐々木さん? 佐々木さん、もう具合の方はいいの?」

 自分のほうに挨拶を返してきた生徒に、横島は挨拶を返しながら、尋ねた。佐々木・まき絵――謎の失神事件の被害者である彼女に。問われたまき絵は、あー、もう大丈夫ですー。心配かけてすいませんー、と屈託の無い笑顔で返してきた。

「それは良かった」

 人の良さそうな顔で頷いてみせた横島は、頷くと同時に、さっとまき絵の姿を霊視する。コンマ数秒以下の刹那の間に、横島は彼女の身体に存在するチャクラや、その身体を縦横にはしる経絡に異常がないことを確認し――

(まぁ、日中はこんなもんか)

 僅かな魔力の残り香めいたものを感知して、ひとり内心で呟いた。少女たちの噂のまととなっている桜並木の吸血鬼ことエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルはネギの父親によってかけられた【登校地獄】(インフェルヌス・スコラステイクス)という珍奇かつ珍妙奇天烈極まりない呪いによってその魔力を封じられている。彼女を封じているのはそれだけではないのだが、それは割愛する。魔力を封じられたエヴァンジェリンは、夜の眷属の力を増す力がある月の光が輝く夜にのみ限定的に魔力を取り戻すのだが、逆を言えば、月の輝かぬ日中はその魔力は霧散してしまう。そう、血を吸い、眷属とした者の裡に残した魔力もろとも。

 ゆえに、佐々木・まき絵の身体には何の異常も出ていなかった。下手をすると、エヴァンジェリンに――桜並木の吸血鬼に襲われたという記憶すら残っていないようですらあった。自分にかけられた呪いを逆手にとった証拠隠滅といえなくもない。それが意図的なものかどうか判別することは、当人以外には難しいが――横島は、その事実に流石だなぁ、と誰にも判らぬ程度に小さく苦笑した。

「――――あれ?」

 まき絵と、二、三、言葉を交わしていた横島の耳に、拍子抜けしたような、それでいて安堵したようなネギの声が聞こえてきた。まき絵に、お大事に、と告げて横島はネギの方を見た。

「あ……いない……エヴァンジェリンさん」

 横島の視線の先で小さく呟いたネギに――

「――マスターは学校には来ています。すなわちサボタージュです」

「うわぅっ!?」

 何時の間にかその背後に立った絡操・茶々丸が抑揚の無い調子で告げた。昨夜自分を襲った相手の従者の声に、ネギは上擦った声をあげてその場を飛び退いた。そんなネギに茶々丸は小さく、だが丁寧に一礼して――

「――お呼びしますか?」

「け、結構ですぅ――――!!」

 そんなやりとりを苦笑しながら見ていた横島は、ビクビクと小動物のように怯えるネギを励ましでもするかのように、ポンとその小さな肩に手を置いて二人の会話に入り込んだ。

「おはよう、茶々丸さん」

「――おはようございます、横島先生」

 三文芝居とはこのことだな。横島はにこやかに挨拶を交わしながら思った。なにせ、今朝起きて、あのログハウスのダイニングに下りたときに挨拶は交わしているのだ。あまつさえ、一緒に朝食を同席している(といっても茶々丸は食事を必用としないので、主たるエヴァンジェリンの付き添いでその後ろに控えていただけだったが)。だというのに、こうした猿芝居じみた真似をしているのは、ひとえに、ネギに情報を渡さないためだ。自分がエヴァンジェリンの家に厄介になっていると知れば、ネギは自分からなにがしかの情報を得ようとするだろう。あるいは、エヴァンジェリンを説得するように頼んでくるかもしれない。

 頼られないように気をつけるってのは、随分と面倒なもんだな。横島は、自分の置かれた状況の面倒さに苦笑せざるをえなかった。

「――しかし、エヴァンジェリンさんはサボりか。出来れば、私の授業ぐらいは出てくれるように言っておいてくれるかな?」

「かしこまりました」

 茶々丸をちらちらと見て、なにやら懊悩しているネギを尻目に、横島は、言っても無駄っぽいけどなぁ、と思いつつ茶々丸に言った。なにせ、あの小さな吸血鬼は学生という立場に飽き飽きしている。加えて、出席率がどうあろうと、呪いがある限り永遠に中学生である現状にはなんら変わりがないとあっては、本人の気が向かぬ限りは授業など受けるはずもないのだ。そのことを考えて、横島は苦笑を浮かべ――なんか昨日から苦笑してばっかやなぁ、俺、と再度苦く笑うのだった。

「さて、ネギ先生」気分を切り替えるかのように、横島は相変わらず頭を抱えているネギに声をかけた。「そろそろ朝のH・Rを始めましょうか?」


「ふむ。で、ネギくんはキミに何か頼んできたかね?」

 3−Aの朝の情景を聞かされた学園長は、興味深そうに横島に尋ねた。横島は、そんな学園長に肩を竦めてみせた。

「まぁ、何か頼もうとしてきたが――ネギがそれを口にする前にここに来た」

 それでいいんだろう――そう目で問う横島に、学園長は満足したように頷いた。それよりも、と横島は懐から取り出したパッケージから、細巻を一本摘まんで、咥えながら言った。

「ジジイ――あの、明日菜って子は、なんだ?」

「なんだ――とは、どういう意味かの?」

 燐寸やライターも使わずに、何時の間にか紫煙をくゆらせはじめた横島に、学園長は顔色を変えずに尋ね返した。

「そらっとぼけるなよ、ジジイ」肺を充分に焼き尽くした紫煙を気だるげに吐き出しながら、横島は言った。「神楽坂・明日菜。麻帆良学園中等部3−A在籍。出席番号8番。美術部所属。両親は非存命。新聞配達のアルバイトで生計を立てている苦学生。親しい友人は寮で同室の近衛・木乃香。後見人は、近衛・近右衛門――アンタだ、アンタ」

「良く調べとるのぉ」

「徹夜したからな。ああ、徹夜したとも」

 おかげで、目の下に隈ができて大変だったんだぞ、と横島は巧妙に化粧で隠したそこを指で示しながら毒づいた。

「で、なんなんだ? あのお嬢ちゃんは。昨日の顛末は俺もエヴァちゃんから聞いただけだが――エヴァちゃんの魔法障壁を無視して蹴り飛ばしただと?」

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは真祖の吸血鬼である。もっとも、その力のほとんど凡てを封じられ、月の輝く夜に僅かに力を取り戻すだけの存在だが。だが、だからこそ。月夜であってさえ非力であると自覚している彼女は、その身の安全に気を配っている。従者の絡操・茶々丸を大抵の場合において侍らせているのもその一環である。そして、彼女にとっての我が身を護る最後の砦は、彼女が魔力を取り戻している間にかぎり、常時展開している魔力障壁である。たしかに、振るえる魔力に比例して、その強度はさほどのものではない。おそらく、並みの魔法使いならばなんとか突破できるといった程度の強度しか持っていない。持っていないが、だが、その薄く非力な存在のあるなしによって、非常時における生存性が大きく変わってくる。それに、いくら薄いといっても、一般人にどうこう出来るシロモノではない。

 それをエヴァンジェリンから聞かされたとき、横島は不審に思い――事の顛末を語ったあとで、もう寝る、と告げたエヴァンジェリンにおやすみの挨拶を交わしてからログハウスを抜け出し、事務局に忍び込んで神楽坂・明日菜の資料を漁ったのだった。だが、大したことは判らなかった。

「ジジイ。何処までだ。何処から何処までが――」

「明日菜くんは、木乃香の友人じゃよ」

 貴様らの計略の裡だ――そう問おうとした横島を、学園長はいたって普通の、それこそ明日の天気についてでも論じるかのような調子で言って黙らせた。そんな学園長に、横島は溜息をひとつ。聞いた自分が莫迦だった、と思っている。

「アンタがそう言うなら――」横島は、疲れたように紫煙を吐き出して、言った。「そういうことにしておいてやるさ。よくよく考えたら、あのお嬢ちゃんがどんな存在であろうと、俺がやることに変わりはないんだしな」

★☆★☆★

 ――彼は、逃亡者だった。

 あらぬ嫌疑(※あくまで本人主観による)をかけられた彼は薄ら寒い牢獄へと投獄されたが――彼の稼ぎを待つ妹のために、決死の覚悟で脱獄し、追っ手の魔手を振り切って、ここまで逃れてきた。そして、自分に自由を保障してくれる存在がいるはずの其処を目指し――

★☆★☆★

「――――くぁ」

 校舎の屋上には、他の場所と同じように、この季節だけに与えられた麗らかな陽光が優しく注がれていた。時間は丁度、四間目の授業が終わるか終わらぬか、といった頃合。朝方からほとんど雲の出ていない好天のおかげで、校舎の屋上は、凡ての生きとし生けるものにとって過ごしやすい環境になっている。

 ただ――

(昼は、眠い……)

 今も『死に続けて』いる存在――旧き存在(エルダー)真祖の吸血鬼(ハイデイライトウォーカー)たるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、その恩恵を受け損なっていた。夜の眷属の頂点に位置する彼女にとって、陽光とはつまるところ不倶戴天の怨敵である。いや、陽光に身を晒せば、その身体が灰と化す――というレヴェルはすでに踏破している。が、それでも、嫌いなものは嫌いなのである。たとえどれほど陽が優しく大気を暖めようと、たとえどれほど温もりに満ちた大気が優しく自分を包もうと。

 夢と現実の間を行き来する思考のなかで、エヴァンジェリンはぼんやりと考えていた。そう、自分にも、この春の穏やかな午後を健やかに感じることが出来た時期はあった。あったはずなのだ。だが、今の自分には、そう感じていた自分の心境を思い出すことが出来ない。かつて感じていたはずのものを思い出すことが出来ないほどに、自分は旧い存在になってしまっていた。陽の光のもとで暮らしていながら、それがどんなものであるかすら判らない存在に成り下がってしまった。夜の眷属であることを卑下するつもりはない。そんな薄っぺらい感傷はとうの昔に打ち捨てた。

 それでも――

 自分の耳元で子守唄を囁く睡魔の誘いに、その身を任しつつあるエヴァンジェリンは、けして慨嘆するわけではなく、ただ、ただ、ただ――純粋に、陽の光の穏やかさはどんなものだったのだろう、と考えた。

 そうして、無限にも、それでいて刹那にも感じられる夢現の時間に思考を漂わせているエヴァンジェリンに――

「おねむかい? エヴァちゃん」

 その頭上から声がかけられた。その、少しハスキーな聞き覚えのある声に、エヴァンジェリンは我が身と精神を夢の世界から現実へと引き戻した。何時の間にか自分の前に立っている人影を見上げて、声を返す。

「私を子供扱いするな――前にもそういっただろう、横島」

「そうだったっけ」

 敢えて険を含ませた自分の言葉に、悪びれるでもなく、とぼけた調子で答えを返す相手――横島・多々緒に、エヴァンジェリンは諦めたように溜息をついた。そんな彼女の様子に苦笑した横島は、となり、いいか? とエヴァンジェリンの返答を待たずに、その傍らへと腰を落とした。その様子に、今度はエヴァンジェリンが苦笑を漏らし――だが、拒むことはしなかった。

「茶々丸さんから弁当をあずかってきたぞ」

「茶々丸はどうした?」

 自身とエヴァンジェリンの前にそう大きくない弁当箱を置いて言った横島に、エヴァンジェリンが首をかしげた。

「ええと、誰だったかな? ほら、あの影の薄い先生――」

「瀬流彦か?」

「あーそうそう。瀬流彦。あいつに用事頼まれてな。代わりにこうして俺が弁当持ってきたってわけだ」

 本人が聞いたら泣き出しそうな会話を交わしながら、横島はウキウキとした様子で弁当箱を手に取る。朝方、出勤前に茶々丸から自分のための弁当を渡されて以来、この時間がよほど楽しみだったらしい。そんな横島の様子を、エヴァンジェリンは半ば呆れたような視線で見る。

「欠食児童なのは相変わらずか、キサマ。いや、今は教師だから欠食教員といったところか」

「三食きちんと食べられるってすげぇ幸せなことだと思わないか?」

 弁当箱を開ける手を止めてまで、真剣な顔をして答えになっていない答えを返す横島に、エヴァンジェリンは頭痛を堪えるかのようにその米神を揉んだ。いったい、どんな生活してたんだ、こいつ。素直にそう思う。少なくとも、高等部を卒業するまでは、自分が食わせていたのだが。

「おーおおー!!」

 自身の積み重ねてきた時間からすれば、ほんの瞬きするほどの過去を思い出すエヴァンジェリンの横で、弁当箱の蓋をあけた横島が歓声をあげた。蓋を開けて出てきた中身に感動したらしい。

「そんな大層なもんか?」

 いや、美味いことは美味いが、と言うエヴァンジェリンに、横島は美味い美味いと喜びに満ちた声をあげながら、あっという間に弁当を平らげていく。その様子を見ていたエヴァンジェリンは、昔――ほんの瞬きする間の過去のくせに、ひどく懐かしく感じる過去のことを思い出した。いつも、金と食事に事欠いて、口癖のように腹ぁ減ったと言っている彼女。見かねて学食に連れていったら、涙を流して喜んだ彼女。

「しかし、いいのか?」

 ごちそうさまでした、と空になった弁当箱に手を合わせる横島に、エヴァンジェリンは尋ねた。

「何が?」

「こんなところにいていいのか、と聞いてるんだ」きょとんとした顔でこちらを見る横島に、エヴァンジェリンは続ける。「新任の教師なんだから、職員室で食ったほうがいいんじゃないのか? せめて、場に馴染むまでは」

 あるいは、教え子たちとスキンシップをはかる意味で、一緒に食べるとか。そう言ったエヴァンジェリンに、横島は、かまわないさ、と笑ってみせた。いつか見たことのある、笑顔だった。

「茶々丸さんから弁当頼まれたしな」

 頼まれたのは弁当のことだけじゃあないけどな、と横島は風の精霊にすら聞き取れぬほどに小さく呟く。

「ふン――そうか」

 なら、いい。エヴァンジェリンは短くそう言うと、そっぽを向いた。まるで、自分の表情を横島に見せまいとしているようでもある。

「そういやぁ――すまない、エヴァちゃん」

「あン?」

 いくらか間をおいたのち、唐突に詫びを口にした横島に、エヴァンジェリンは怪訝そうな声を漏らした。彼女の横で、横島は、嘆息するような調子で肩を落としながら言った。

「あの、明日菜って子のこと、大して判らんかった」

「――それで、昨日の夜抜け出してたのか」

 なんや、バレとったんか、という横島に、エヴァンジェリンは月の出ている夜の私を舐めるなよと笑ってみせる。自分が床について間を置かずに、あのログハウスを抜け出したことは判っていた。正直、後を追おうと思ったが――エヴァンジェリンは、思いとどまり、そのまま眠りについた。かつて、彼女は黙って自分の前から姿を消した。だが、今、こうして自分の前に戻ってきている。ならば、今宵、この家から姿を消そうと、陽が昇るころにはきっと戻ってくる――そう自分に言い聞かせて。

「どうせ、事務局にでも忍び込んだのだろう? ご苦労なことだな」

「いや、ホント、スマン」

 あの、自分の魔法障壁を、まるで最初から存在しなかったかの如く突破してみせた存在――神楽坂・明日菜のことは正直、気に掛らないといえば嘘になる。自分の計画の障害になりうるかも知れない――そう思うと、心がざわめく。だが、

「気にするな」

 今は、この自分の傍らで項垂れている彼女が、自分のために骨をおってくれたことのほうが、エヴァンジェリンの心に彩りを与えていた。そう、不安など忘れてしまうほどに。そんなエヴァンジェリンの言葉に、横島は彼女の心境を知ってか知らずか、

「エヴァちゃんはやさしいなぁ」

「――私を子供扱い……するな」

 はにかむように笑いつつ、エヴァンジェリンの頭に軽く手を乗せ、まるでその絹糸のような髪の感触を愉しむかのように頭を撫でた。その感覚に、エヴァンジェリンは拗ねたような口調で文句を言いながら、しかし、自分の隣に横島が腰を下ろしたときのように、けしてそれを拒否することはなかった。

 小春日和の校舎の屋上。階下や遠くから聞こえてくる、生徒たちの楽しげな昼食時をエンジョイする華やかな声をBGMに、おだやかな時間が流れる。その優しい空気と時間の中で、エヴァンジェリンは、しばし自分の頭を撫でる横島の感触を愉しんでいたが――

「――む」

「うん? どうしたエヴァちゃん」

 夢から醒めるように、エヴァンジェリンは少しばかり険のある声を漏らした。

「いや――」名残惜しそうに、自分の頭から横島の手をどけさせて腰をあげながら、エヴァンジェリンは言った。「何かが、結界を越えてきた。学園内に忍び込んだやつがいる」

 学園長――近衛・近右衛門とは別の意味で、エヴァンジェリンの手と耳は長い。封じられているがゆえに、振るえる魔力は多寡が知れている彼女だが、周囲の魔力を感知するその感覚まで封じられているわけではない。いや、そうでなくては学園の『警備員』などは勤まらないのだが――その、『警備員』たるエヴァンジェリンの繊細な、そして高い感度を誇る感覚が、麻帆良の地に張られた結界を越えてきた存在のことを検知した。

「面倒だが、調べてくる」

「と、調べてくるってエヴァちゃん、弁当、弁当」

 気だるげに、『仕事』をサボるわけにはいかんからな、とその場を離れるエヴァンジェリンに、横島はさして手が付けられていない弁当箱をアピールしてみせた。エヴァンジェリンは足を止め、小さく笑いながら言う。

「――オマエにくれてやるよ、横島」

 どうせ、あれっぽっちじゃ足らないだろう? 言って、エヴァンジェリンは横島に背を見せて歩みを再会した。振り向かぬままに、付け加える。

「明日は、もうすこし量を増やしておくように茶々丸に言っておいてやるよ」

 ああ、エヴァちゃんはやっぱ優しいなぁー。おそらく、弁当を掻き込みながらだろう、少しくぐもった声の横島の言葉に、くつくつと笑いながらエヴァンジェリンは屋上をあとにした。生徒たちとすれ違いながら階段を下りつつ、エヴァンジェリンは思った。もしかしたら――

(あの頃の私は)

 今みたいな気分で、春の陽を感じていたんじゃないだろうか、と。

★☆★☆★

「今日の晩飯はなんだろうなぁ」

 放課後の、明日の朝までの自由の始まりの時間を愉しむ生徒たちがそこかしこに見受けられる学園内を歩きながら、横島は今日の食卓を彩る夕餉の内容を、心から、心の底から楽しみにしながら、そう一人呟いた。昨日の夕餉や、今日の朝食や昼食の弁当から、エヴァンジェリン宅の台所を預かる絡操・茶々丸の料理の腕は充分に理解できた。おそらく、自分の知る限りでは、茶々丸の料理に比肩しうる料理の腕の持ち主は、彼女が彼であったころの旧い友人のひとりである魔女ぐらいだ。であるならば横島でなくとも、期待してしまうのは無理のない話だといえる。

 それに。

 横島は思った。

 誰かと一緒に食べる食事ほど美味いものはない、と。

 横島は基本的に、誰かの存在を欲する――寂しがり屋の人間だった。であるからこそ、ほぼ本能のレヴェルで芸人まがいの行動で誰かを笑わせるし、どんなに嫌だと思っても困っている誰かに手を差し伸べてしまう。そうすることで、誰かに必要とされている、と信じていたいと無自覚に思っている。

 だからこそ、誰かと一緒に囲む――暖かい食卓というのは、横島にとって掛け替えの無いものなのだった。

 そして、今から返ろうとしている、あの静かな木々の合間に建つログハウスには、それがあった。かつて、何も言わずにいなくなった自分を――多少、詰られたりイジメられたりしたが――許し、受け入れてくれたエヴァンジェリンが。彼女の傍らに控える、ロボットとは思えぬほどに細やかな気配りを見せる主思いの茶々丸が。昨日は会わなかったが、あの人形の彼女だっている。

 何時だって横島が欲して止まない誰か――家族が、あのログハウスにはあったのだ。夕食のことを抜きにしても、横島の足取りが軽くなるのは当然のことだった。そして、その足取りのままに家路を急いでいると――

「――うん?」

 横島は、不意に、自分を見つめる――というよりも、自分を盗み見る視線に気が付いた。その視線に、横島は気付いたふりも見せずに、先ほどと変わらず軽やかな足取りのままで進む。むろん、さきほどまでの足取りの軽さが無意識からくるものだとすれば、今のそれは意図してのもの。ほんの刹那の瞬間も、如何なるものにも気取られていない――そう見せる演技。そして、視線を感じ取ってからこちら、ゆっくりと、だが確実に五感の凡てを研ぎ澄ませる――

(さて)

 横島は、自然体を演じながら、家路を少し外れた。学園都市の中心から見れば郊外に位置する、真祖の根倉から離れた場所へ。人目のつかぬ場所へと足を進める。横島は思った。はたして、何処のどいつだろうか。追跡者、あるいは尾行者の正体を横島は推し量った。自分がこのはっちゃけ学園都市に舞い戻ってから、まだ二日。世界の、出来れば関らずにすませておきたい裏側に自分の帰還が知れるには、少しばかり早すぎる。かてて加えて、自分は『ただの教師』として――裏側の世界とは関係無しに此処に戻ってきた。現に、顔見知りばかりの魔法先生たちの大半とは顔も合わせていない。いや、まぁ、デスメガネだの影の薄いのとかとは顔を合わせたが。

 ――自分のことを知っている裏側の住人ではない?

 機嫌の良さそうな演技――今にも、鼻歌でも歌いだしそうな気配を作り出しながら、横島はそう考えた。直接、間接の関係なく、自分のことを知っている人間の可能性が低いとみた横島は、第二の可能性に思考を向けた。考えられるのは――

(長瀬さん、龍宮さん、桜咲さん)

 このあたりか、と横島は思った。あの、何処かしら能天気な雰囲気を醸し出す教室に、極自然に溶け込んでいる――裏側に通じるものを持つ少女たち。将来が楽しみな少女たちの顔を思い浮かべながら、横島は内心で苦笑した。正直なところ、

(もそっと体捌きに気をつけておけばよかったか)

 と、思っていた。いくらなんでも、不自然なほどに自然すぎた――一部の乱れも無い体捌きは、あの懐かしさを喚起させる口調の少女にはバレていた。もう少し、崩した姿勢を装うべきだったか――そう反省し、

(しかし、こればっかはなー)

 どうしようもないしな、と横島は心で苦く笑う。もはや身体の奥底に確りと染み付いた、身体の動かし方は、一朝一夕でどうにかなるものではない。まして、妙な癖をつけて、いざというときに咄嗟の反応が出来なくなっては本末転倒もいいところだ。難儀なもんやなー、と横島は思う。

(さて、後をつけてくんのは誰だろーな)

 感じられる気配はひとつ。横島は、思い浮かんだ顔の中から、尾行者を思い――

(判らんなー)

 流石に、二日間で顔を合わせたのが朝夕のH・Rと自分の授業だけでは察しの付け様がなかった。いくらなんでも、机に座って連絡事項や授業を聞いているだけの姿から、気配を押し殺して自分をつける相手を推察するような真似はできなかった。あっさりと追跡者の正体を看破するための努力を放棄した横島は、代わりに、自分がつけられる理由を考えた。

 自分のテリトリーに現れた、正体の判らない人間を調べる。

 それが正解だろうか。横島は思った。だとしたら――

(出来れば話し合いでどーにかなるといいなー)

 愛らしい少女たちと交わすのは、剣戟や銃弾の嵐ではなく、愛を囁くストロベリーなトークのほうがよい――心の底からそう思っている横島は、追跡者が話しの判る相手であることを祈った。

 そうこうしているうちに、周囲からは何時の間にか人影が絶えていた。むろん、自分が帰るべき場所であると確信している、あのログハウスからも離れている。もし、追跡者と事を構えることになっても、堅気の生徒や、あの真祖の吸血鬼とその従者に面倒が降りかかることはないだろう。そう考えた横島は、

「――おい」不意に足を止めて声を出した。「いい加減、出てきたらどうだ?」


 ――気付かれていた。

 人目みた瞬間から、意識を奪われた相手は、こちらの存在に気付いていた。気がつけば、あたりに人影はなく――

 それはつまり、自分は体よく誘き出されてしまったということを意味する。まさか、完全に気配を殺していた自分に気付き、あまつさえ、誘導してみせるとは。ただものではない。ただものではないが――

 だからといって、ここでおめおめと尻尾を丸めて引き下がっては自分の矜持が廃る――――!!


「――――つっ!?」弾丸のように飛び出してきた影に、横島は舌打ちを一つ。「いきなりかこのっ!!」

 目にも止まらぬ速度で自分の胸元をかすっていく影に、横島はそれをかわしたあとで確信する。速い。確かに速い。

 だが――

 捉えられぬほどではない――と。

 すっと、身構え、丁度良い場所に生えていた楢の木で方向転換して再び弾丸のように自分に迫る影の軌道を見て、横島は思う。狙いは先ほどと同じ――おそらくは心臓。初志貫徹――その覚悟と矜持は見上げたものだ。だが、と横島は唇を歪める。

「二度も同じ攻撃が通用するか――――っっ!!」

 まるで某星座の戦士のような台詞を吐いて、横島はうっすらと霊力を纏わせた右手で、自分の心臓をめがけて突進してきたそれを掴み取った。掴みとって、横島は自分の右手の中でもがくそれをはっきりと視認して呟いた。

「――――イタチ?」


『知ってるようで知らない世界〜 if 〜』第四話『暖かさの温度』了

今回のNG

「アンタなら、この学園で起きた出来事は大抵知ってるだろーが」そう言うと、横島は昔を思い出すような表情を浮かべた。「――絶好の覗きスポットを記したアンタの手帳。あれは実に見事だった」

「よ、横島くんヒトの過去を偽造するのは如何なもんか「学園長、そんなことをなさっていたんですね?」って、しずなくん何時の間に!? ちょ、ちょっとまってくれんか? そんな汚らわしいモノをみるよーな目でワシを――って今回ワシがオチ要員!?」



後書きという名の言い訳。

オチがバレバレだったよーな気もするが気にしない。それが俺のジャスティス。こんばんは、山道です。お約束どおり更新――って表でさえ四週連続更新とかしてないのになんで俺は隠し部屋をこんなに頑張っているんだろーか。それは兎も角、なにやらシリアスめいた話になってきつつありますが、そこは俺のことだから来週あたり莫迦な話になるに決まってる。やな確信だなぁ。とまれ、さっさと九話と一〇話を書き上げてエヴァンジェリン編にかたをつけねば。では、また来週ー。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送