「富翁かよ。随分大盤振る舞いやなぁ」
魔法瓶のコップに注がれた無色の液体をちろりと舐めて、横島は感心したような、呆れたような声を漏らした。バスの座席から、車窓に目をやれば、外を京都市街の風景が流れていく。そして、車内に目をやれば――
「ううう〜」
「もーのめにゃいー」
「はひー」
死屍累々といった泥酔者たちの有様に、横島は思わず溜息をひとつ。
「何を黄昏ている、横島」
バスに乗り込む際に、いの一番に横島の座席を確保したエヴァンジェリンが、車窓から見える光景から視線を移し、頬杖をつき、物憂げな様子で手にしたコップの中身をくるくると揺らしている横島に尋ねた。
「んー? いや、どうしたもんかなぁ、と」
「…………放っておけ。それより」横島が、車内に満ちる熟柿のような匂いと、それを発している泥酔者たちのことを言っていると思ったらしいエヴァンジェリンは、あっさりと言う。言って、横島の手にしているものに視線を注ぐ。「随分といいものを呑んでいるな」
「――――呑むかい?」
エヴァンジェリンの視線に気付いた横島は、一口舐めただけであとは口に持っていこうともしないコップを掲げてみせた。それに頷いてみせるエヴァンジェリンに、なんの抵抗もなくコップを手渡し――
「――――ふむ、なかなかのものだな」
「そら、北川本家の大吟醸だしなぁ――それはそうとエヴァちゃんいけるクチかい?」
コップの中身を一気に煽ってみせたエヴァンジェリンに、横島は首を傾げてみせる。普段はワインだがな、と横島に迂遠な肯定を返したエヴァンジェリンは、無言でコップを掲げてみせる。苦笑を浮かべて、魔法瓶の中身を注いでやる。
「ふむ――美味い。オマエは呑まんのか?」
洗練された芳醇な味わいに舌鼓を打って、エヴァンジェリンは横島が碌に呑んでいないことに気付き、尋ねる。
「あー、俺も貰おうか」
「うむ、よし」
答えた横島にコップを返したエヴァンジェリンは、横島から奪い取るようにして魔法瓶を取り上げると、嬉々とした表情で勺をしてやる。とく、とく、とく――と酒飲みには堪らない小気味いい音を響かせながら、魔法瓶の中身がコップを満たしていき――
「ととっ」
表面張力ぎりぎりまでコップに注がれた横島は、中身が零れないように手首でバランスをとる。そのまま零さないように細心の注意をはらいつつ、コップを口元まで運び、啜るようにしてまず一口味わう。
「――塩が欲しいなぁ」
「通なヤツだな」
いやいや基本だろ、と言って横島は一口啜っていささか中身の量を減らしたコップに再び口をつけ――一気に煽る。ほどよい度数のアルコールが舌で踊り、喉をつたい、臓腑に落ちていく。その感覚に、横島は得もいえぬ幸福感を感じ、先ほどから覚えているやるせない思いを数寸忘れた。だが、それもほんの一瞬のことだ。すぐに幸福感は薄れていき、再び内心はやるせない思いに満ちていく。
自身の内心を覆うそれを思い、横島は小さく溜息。
「すまんエヴァちゃん、もう一杯貰えるか?」
『――まもなく京都です』
お忘れものの無いよう、と車内アナウンスが響くなか、期待に胸を膨らませた子供先生――ネギ・スプリングフィールドは自分が引率している2−Aの面々に踊るような調子の期待を隠しきれていない声で声をかけた。
「みなさーん! そろそろ降りる準備をしてくださーい!!」
がやがや――とまではいかないが、ネギの声で降車の準備を始めた生徒たちによって俄かに騒がしくなりはじめたなか、それを促したネギは自身も忘れ物がないかチェックしつつ、窓からすでに見え始めている京都の風景を見て、ぎゅっと拳を握った。
「よし――いよいよ京都だ」近代的な――だが、あまり背の高いとはいえない街並みのところどころに趣を感じ取ることが出来る古い木造建築物の見え隠れする風景を興奮した面持ちで眺めながら、ネギは言った。「この地にサウザンドマスターの手掛かりが――」
「あー、ネギ」
車窓から見える風景に、父の面影を求めていたネギは、後ろ掛けられた声に振り向き、
「あ、タダオ――ってどうしたの? 顔、真っ青だよ!?」
声の主――自分の同僚であり2−Aの副担任、横島・多々緒の顔が青いことに気付き、慌てて傍に寄る。もしかして新幹線に酔っちゃったの? タダオ、乗り物ダメなヒト? と自分の具合を心配してくるネギに、横島は弱弱しい苦笑を浮かべてみせる。
「いや、別に新幹線に酔ったってわけじゃないんだ。ちっと体調がおもわしくなくてな」
「え? 大丈夫なの?」
「ああ、まぁクスリ飲んでおいたからそう悪くはならんと思うが――」言って、横島はネギに向けて申し訳なさそうな表情を浮かべる。「こんな体たらくだから、下手すっと副担任としてネギの補佐もままならんかもしれん。そのことを言っておこうと思ってな」
まぁ、出来る限りのことはやるともりだが、と頭を掻く横島に、ネギは気遣って口を開く。
「ううん、気にしないでよ、タダオ。体の調子が悪いんじゃあ仕方ないし」
その言葉に、横島はすまんなぁ、と苦笑する。いい歳をして、十歳児に気遣われてしまっている自分の侭なら無さになんとも言えない情け無さを覚えてしまっている。そうした横島の気分を悟ったのか、ネギは横島の気分を変えるために、口を開いた。
「タダオ、体調が良くないって風邪でもひいたの?」
「あー、風邪ってわけではないんだが」
何故か言いよどむ横島は、
「まぁ、気にするな」
結局、言葉を濁して誤魔化した。そのことに、ネギは少しばかり不満そうな表情を浮かべるが――
(兄貴。ネギの兄貴)
(カモくん、どうしたの?)
(へっへ、兄貴。女にゃ男においそれと口に出来ない事情ってもんがあるんでさ)
(へ?)
(まぁ、兄貴も大人になったら判りまさぁ)
少しにやけた表情のオコジョ妖精に耳打され、不承不承といった様子で引き下がる。車内に再度アナウンスが流れ、ネギは肩にオコジョ妖精を乗せて生徒たちの引率のためにその場を後にした。その後姿を見送りながら、横島はだるそうに壁に背を預けて溜息をつく。
「ありゃあ、バレてたな」
流石はエロオコジョ、女体の神秘もお見通しか。呟くようにそう言って、横島は改めて女の身体となった自分の難儀さに理不尽さを覚える。
月経。あるいは生理。
それが横島の身体を苛んでいる体調不良の正体だった。この世界に落ちて、なんの因果か女性となっていた横島は、その女性特有の現象に苦しんでいた。横島の生理は、酷く重いもので、時にはベッドの中から動けなくなるときもある。今日はまだ初日であり、クスリの力も借りているのでそうでもないが――
「ほんとタイミング悪いなぁ、俺」
もし、この修学旅行中に、西の連中の強硬派が襲撃してきたら。もし、それをネギや刹那が捌ききれなかったら。そのことを考えると、横島は思わず溜息をつくのを堪えることが出来なかった。苦いものを含んだぬるい呼気が横島の口から漏れかけ――
「なるほど、そういうことだったか」
「ひゅあっ!?」
いきなりの声に、漏れかけた溜息は珍妙な声となって横島の口から放たれた。けったいな声を漏らしてしまったことにバツの悪さを感じながら、横島は自分に声をかけた相手の顔を見る。
「気配絶ってイキナリ声をかけるのはどうかと思うぞ? エヴァちゃん」
「ふん、気付けぬほどに緩んでいるオマエが悪い」
苦笑しながら言う横島に、相手――エヴァンジェリンは悪びれもなくそう言い放った。そして、その態度のままで横島の傍につかつかと歩み寄り、
「今朝方、微かに血の臭いがしたのは、そのせいだったんだな」
横島の身体に顔をよせ、くんくんと臭いを嗅ぐ。その仕草に、横島は遠い記憶となった押しかけ弟子のことを思い出して苦笑を深くする。
「昨日の晩も吸われたしなー。たぶん、そっちに紛れて判り辛かったんだろ」
首筋をそっと撫でる横島の指先――頚動脈のあたりには、小さな孔が二つ開いている。ほぼ毎晩、エヴァンジェリンに犬歯を突きたてられているために、治癒する間も無く恒常的なものとなっている疵跡だ。たしかに、臭いに敏感なものであれば、そこから血の香りを嗅ぎ取れるに違いない。
「それにしても」横島の言葉に頷きつつも、エヴァンジェリンはだるそうにしている横島に問う。「何故だ?」
「なにが?」
気の抜けたような声を返す横島に、エヴァンジェリンは眉をあげた。不機嫌そうに、半眼で横島に視線を送る。
「どうして、体調のことを黙っていた?」
「ああ」そのことか、と横島は頷き、答える。「まぁ、最近はクスリ飲めばそう酷くないし。問題ないかなぁ、と思って」
実を言えば、自分が体調不良を訴えることによって、エヴァンジェリンが酷く楽しみにしている修学旅行にいらぬ水をさすことになるのではないかと考えたゆえのことなのだが――横島はそれを口にしなかった。
横島の答えに、エヴァンジェリンはある種のそらぞらしさと、隔意を感じとる。思う。このバカは、おそらく、自分に対していらぬ気遣いをしているに違いない、と。そして、そのことに腹が立つ。たしかに、旅行は楽しみにしていた。していたが――その楽しみの大半は、横島と一緒に、という事実がそのウェイトを占めている。
――その横島に、一方的に気を遣われて、どんな旅行が楽しいというのか。
だが、その一方で、自分のために気遣いしてみせる横島の心遣いも嬉しくある。不満と満足の間で揺れ動くエヴァンジェリンは、
「――ちっ」
と、小さく舌打ちして横島に背を向けた。そのまま、口を開く。
「本当に、大丈夫なのか?」
「うん? まぁ、クスリも飲んでるしな。平気平気」
「――そうか」
へらり、とした横島の答えに、エヴァンジェリンは歯噛みする。微妙なバランスを保っていた心が、一気に不満に傾いた。日頃、アホみたいな食欲を発揮してる人間が、たかだか三つ四つの弁当を空けたぐらいで戻すはずがない。つまり、横島の体調はかなり悪いことになる。
その事実に反する横島の答えに、エヴァンジェリンは明確な隔意を感じた。横島・多々緒は自分に優しい。それは間違いない。間違いないが――
(それでも、心のどこかに一線引いている)
エヴァンジェリンは、そう確信した。もし、自分の事を思ってくれるのであれば。もし、自分のことを大切に思ってくれるのであれば――何故、もっと自分を見せてくれないのだろう。心配をかけたくない? 莫迦を言うな。
「横島」
背を見せたままで、エヴァンジェリンは不意機嫌そうな様子を隠そうともせずに口を開いた。なんや? と返してくる横島に言う。
「私は――」
オマエの頼りにはなれないのか? そう言い掛けて、
「――なんでもない」
エヴァンジェリンは口にし掛けた言葉を飲み込んだ。言ってしまえば、今の心地良い関係――それを保っているバランスが崩れてしまうような気がした。そんなことを考えている自分を、エヴァンジェリンは小さく嘲笑った。
本当に。本当に私は弱くなってしまった。昔の私が、今の私を見たら、その堕落ぶりに嘆いてみせるに違いない。だが。私は。今の私は――
「オマエ、確か関西の出だったな?」
「うん? まぁな」
――この弱さがたまらなく好きだ。だから、横島。私が安心して弱くいられるように、
「京都には詳しいのか?」
「いや、関西って言っても大阪の生まれだしなぁ。標準的な観光客ぐらいの知識しかないな」
――もっと傍にいてくれ。
「そうなのか? 案内してもらおうと思ったんだが」
「まぁ、パンフ片手に一緒に回るぐらいで勘弁してもらえんかな」
「――ふン。まぁ、それでいいだろう」
自分と横島の間に横たわる微妙な距離に、居心地の良さと悪さ、変革を欲する気持ちと安定を望む気持ち――相反した感情を抱きながらエヴァンジェリンは茶々丸たちの待つ座席へ帰っていく。横島にも、そこに――座席ではなく、自分の待つ場所に戻ってきてほしいと、なんの遠慮もなく居座ってほしいと願いながら。
京都、音羽山に位置する清水寺から望める風景は、見るものに日本的風景のなんたるかを知らしめるものを持っているといっても過言ではないだろう。遠くに京都市街を一望できるその山間の寺を囲う木々は、秋ともなれば、色鮮やかに粧い、上気した姿を見せてくれる。
もっとも、麻帆良学園女子中等部の面々が訪れている今は、春。山は笑い、芽吹き出した緑に包まれている。と、いっても、それでこの景色に趣がないということにはならない。新緑に彩られた山には、命の躍動する生き生きとした魅力がある。
とはいえ。
「京都ぉ――――――っっ!!」
「これが噂の飛び降りるアレ!」
「誰かっ! 飛び降りれっ!!」
「では拙者が――」
「おやめなさいっ」
花より団子という言葉が良く似合う年頃である少女たちには、いささかばかり感動薄いようではあるが。娘三人よれば姦しい、とは言ったものであるが、それが女子中学生の団体ともなると姦しいどころの騒ぎでなくなるらしい。ただでさえアッパー系入っていてテンション高めである3−Aの面々は、数ある団体客の中でも一際騒々しかった。もっとも、
(テンションたけーなーこいつら)
「ここが清水寺の本堂、所謂『清水の舞台』ですね。本来は本尊の観音様――千手観音――に能や踊りを楽しんでもらう為の装置であり、国宝に指定されています。有名な『清水の舞台から飛び降りたつもりで……』という言葉どおり江戸時代実際に234件もの飛び降り事件が記録されていますが生存率は85%と意外に高く――」
テンションの高いクラスメイトに辟易している者や、あくまで自分のペースを崩さないものもいる。そうした教え子たちの様子を、横島は苦笑しながら眺めている。自分にもこんな時期があったなー。遥かな過去を思い出して、横島は遠い目をした。自分の中学の卒業旅行も京都だった。懐かしい。思い出すのは、ちょっと立ち寄った小さなお寺さんで公開されてた古い仏像を小突いたら腕がぽっきり折れて慌てたこととか。ごめんブっちゃん。
「多少は顔色が良くなったようだな?」
「ん? ああ、多分空気がいいせいだろ。だいぶ楽だ」
横島の傍らで、大堂とそこから望める景色に視線をやっていたエヴァンジェリンは、横島の体調が多少良くなったと見て、声をかけた。答える横島。その答えに、
「つまり、さっきは楽じゃなかったんだな」
「う゛っ」
ジト目で睨まれ、横島は油汗を浮かべる。そんな横島に、エヴァンジェリンはしばし責めるような視線を送ったあとで、溜息をついた。
「まぁ、いい。だが、あまり無理はするなよ?」
「優しいなぁ、エヴァちゃんは」
弱弱しく笑ってみせる横島に、エヴァンジェリンは僅かに顔を赤く染める。自分の日本趣味を満足させる光景に身を置いているために、多少浮かれているのだろうか、その表情からは、新幹線の中で感じていた心境は感じ取ることが出来ない。
「莫迦なことを言ってるんじゃない」
照れたようにそっぽを向くエヴァンジェリンに、横島は浮かべていた笑みを苦笑に変える。そのままの表情で横島は問う。
「エヴァちゃん、満足してるか?」エヴァンジェリンの日本趣味を知っている横島は、辺りの風景と目の前のエヴァンジェリンに交互に視線を送る。「ここなんて、結構なもんだと思うが」
「――ああ」
横島の視線に促されるように再び自分の周囲に展開する情景を見渡して、エヴァンジェリンは陶然としたような表情を浮かべた。
「そいつぁ良かった」
エヴァンジェリンが答える様子を見て、微笑を浮かべた横島。その横島の耳に、教え子たちの一際騒がしい声が聞こえてきた。何事か、と傍耳立てる。どうやら、ここから見える地主神社の話題で盛り上がっているようだった。本堂の鑑賞を切り上げて、そちらに移動しようと按配になっているようだ。
「エヴァちゃんも行ったらどうや?」
「オマエはいかんのか?」
聞き返すエヴァンジェリン。暗に、一緒に来いと言っていた。エヴァンジェリンにしても、地主神社の言い伝え――より正確には、地主神社にある音羽の滝の伝承に興味があった。できることなら、横島と、と考えている。だが、
「いや、俺はしばらくここで休んでるよ」
乙女心を空振らせることにかけては右に出る者のない横島は、そんなエヴァンジェリンの思いを他所にそう答える。もっとも、悪意あってのことではないし、それなりに理由もある。多少、楽にはなったが、体がだるいことにかわりは無い。地主神社までの道程は、そんな横島にとって少々酷であった。
「先にいっといで。俺もあとから行くから」
なら、私も――横島にそう言おうとしたエヴァンジェリンを制するように、横島は言う。あくまで自分に対する気遣いを優先する態度を見せる横島に、エヴァンジェリンは不満と、嬉しさの両方がない交ぜになった心境になる。
「判った。無理はするなよ?」
しばし逡巡したのち、エヴァンジェリンは横島の言葉に従うことにした。実のところ、横島の傍についていてやりたいというのが本音なのだが、それを言ってしまえば、横島の折角の好意を無にしてしまうことになる。加えて、体調の悪い自分につき合わせてしまった、という負い目を感じさせかねない。そうした次第で、エヴァンジェリンは後ろ髪が引かれる思いを抱きつつ、茶々丸をともなって横島の休む本殿をあとにした。
「しかし、まぁ」本殿の淵を飾る欄干に身体を預けた横島は、そこに体重をかけ、背を仰け反らせるようにして空を見上げた。「ホントに良い天気やなぁ」
むかつくぐらいの快晴が、横島の頭上に広がっている。その一方で、横島の心中にはもやもやとした気持ちが広がっていた。この修学旅行中、どうにも自分が役に立ちそうも無い――ということに対する苛つき。そして、エヴァンジェリンに余計な心配をさせてしまっているということに対する罪悪感が、横島の心から晴れ晴れとした気分を奪い去っていた。もっとも、横島のそうした物の考え方に、エヴァンジェリンが不満を抱いていることには気付いていない。
――侭ならんもんだ。
気分とは裏腹に、爽やかな抜けるような青空に視線を送りながら、横島は声に出さずそう呟いた。声ならぬ呟きは、快晴の青空と、周囲の観光客が作り出すささやかな喧騒に吸い込まれるようにして消えていく。
どれほどそうしていただろうか。山間を吹き上がってくる爽やかな風に、遠く下の方から教え子たちのはしゃぐ声が小さく聞こえてきた。俺もそろそろ行くかな――まだ少し重ダルさが残る身体でそんなことを考えた横島は、眼下に見えるはずの地主神社に視線を送り、
「――なにアレ?」
思わず間の抜けた声をもらした。地主神社――その音羽の滝に掛る屋根。そこに、変なものが居た。なんか酒樽担いだ新幹線の売り子のネーチャン。横島の視線に映る変なモノは、それであった。横島は、しばしその変なモノを見つめたあとで、疲れたように青空に視線をやる。見上げた空は、やはり、むかっぱら立つぐらいに晴れ渡っていた。がしがしと頭を乱暴に掻いて、周囲の観光客に視線を送る。自分と同じように眼下に視線を送っている者たちは無数にいたが、あの変なものに気付いた様子を見せているものは皆無だった。いや、脳内が無意識に視界に入った珍妙なものを無視してかかったという可能性も無きにしもあらずといったところだが――
「――面倒な」
おそらくは、認識阻害の魔法――呪術を使っているのだろう。ちらり、と眼下に見えるネギに視線を送る。どうにも気付いている様子がない。横島は、もう一度面倒そうに頭を掻くと――
次の瞬間、観光客たちの間から忽然と姿を消した。
「ふ、ぅ――――」
酒樽――中身が詰まった酒樽、というものは酷く重い。少なくても、女性であれば好き好んで担ごうと思うシロモノでないことは確かだ。が、女性――新幹線の売り子の服に身を包んだ女性、天ケ崎・千草はそれを自分の意思で担いでいた。額には、玉のような汗がひっきりなしに浮かび、純日本人的な印象を与える肌を次から次に流れ落ちている。
「く、は――」
苦悶の声を漏らし、千草は酒樽を運び――
「くぁっ!!」
自分に課していた苦行を、ついに勤め終えた。音羽の滝、その屋根の上に酒樽をどすんと置く。しばらく、その場にへたり込み、随分と上がってしまった息を整えた千草は、のろのろといった様子で腰をあげた。正直なところ、体力に関しては平均値以下のものしか持ち合わせていない千草にとって、この手の重労働に属する行為は、式を使役してあたらせるべきものなのだが――
(それが出来たら苦労はありまへんなぁ)
千草は、思わず溜息を漏らす。認識阻害の呪術だけは必要ゆえに使っているが――呪力、あちら側で言うところの魔力を感知されるおそれのある行為は、可能な限り慎まなければならない。楽をするために自分の行動を察知されてしまえば、凡ては水泡に帰してしまうのだ。なればこその苦行であった。
自分が望んで嵌っている面倒のことを思いながら、千草は酒樽と一緒に持ってきた道具一式に手を伸ばし――
「で、それで何をするんだ?」
なんの予兆もなく後ろからかけられた声に身体を硬直させた。道具に手を伸ばしたまま身を凍らせた千草は、すぐに硬直から抜け出し、ばっとその場から飛び退く。見れば、眼鏡をかけ、仕立ての良いスーツに身を包んだむしゃぶりつきたくなるような美女が面倒そうな雰囲気を漂わせてそこに佇んでいた。
「――どちらさんどすか?」
ただの美人さんではあるまい。認識阻害の呪術を無視するかのように――そして、多少なりとも裏の世界に関ってきた自分になんの気配も感じさせずに声をかけてきた相手を、千草はそう判断する。声をかけながらも、千草はエプロンに忍ばせてある呪符に手を伸ばし、
「ああ、その物騒なモンに手を伸ばさんでもらえるかな?」
飄々とした、どちらかと言えばヤル気のない声でそれを押し留められる。アカン。千草は思った。このヒト、タダモンやあらへん。背筋を、冷たいものが流れるのを感じながら、千草は現状をどうやり過ごすかを考える。そんな千草に、
「あー、アレか。おねーさんは関西呪術協会のヒトだったりするのかな?」
煙草を咥えようとして思い留めた女――横島が、代わりに禁煙パイポを咥えながら尋ねる。その問いに、千草は少なくても目の前にいる女が、『こちら側』の人間であることを理解した。問題は――
「で、あんさんはどちらさんで?」
この得体の知れない女が、こちら側のどっちに属しているかということだが――
「うん? お――私かい? 私は、そこの下できゃいきゃい騒いでる女の子たちの教師だよ。名前は、横島・多々緒」
麻帆良の人間。つまり、西洋魔法使いたちの人間。千草はそのことに歯噛みしそうになり――
(横島・多々緒やて!?)
相手の名前に思わず声をあげそうになった。横島・多々緒といえば音に聞こえた始末人にして、陰陽術の使い手。なんてことや。千草は、伝え聞く横島の技量に、自分の目論見が音を立てて崩れていくのを感じ――
「ああ、そう固くならんでもええて」
横島のあまりにフランクな物言いに思わずきょとんとした表情を浮かべる。どちらかと言えば、怜悧な顔立ちの千草がそうした表情を浮かべてみせたことに、意外な面白味を感じつつも横島は更に口を開いた。
「別に、とって喰おうってワケじゃない。そこにある酒樽も、大して害があるもんでもなさそーだしな」
言って、横島は頭を掻いてみせる。ワケが判らないといった表情を浮かべている千草に、くすりと笑いながら言う。
「おねーさんが何をしようと、今のところは邪魔立てしないさ。まぁ、ウチの教え子たちに危害を加えそうになったら流石に邪魔するけど。とりあえずは、手は出さない」それは私の仕事じゃないしな、と横島。「その代わり――」
千草は、横島の口から漏れた言葉に思わず息を呑み――ややあって、口を開いた。
「勧めておいてなんだが――いいのか?」
「うん?」
バスに揺れているのか。それとも、酔いに揺れているのか微妙に判らなくなった程度に酒の回っている横島は、エヴァンジェリンの気遣うような声に首を傾げて見せた。
「体調だ」
さっきから、表情が沈んでいるぞ――とエヴァンジェリンは横島と代わる代わる使っているコップを手にしたまま、隣に座る横島の顔を覗きこむようにして尋ねる。
「いや、体調のほうは今んとこ、そー悪くない」
「そうか?」
無理だけはしてくれるなよ、と気遣うエヴァンジェリンに、横島は優しいなぁ、エヴァちゃんは、と繰言のように言うと、窓の外を流れる景色を見て、エヴァンジェリンに気付かれないように小さく溜息をひとつ。と、横島が溜息をついた瞬間、バスが緩やかに停車する。どうやら、今宵の宿についたらしい。自分の手荷物を持ちながら、教え子たちに降車を促しながら、横島は音羽の滝で天ケ崎・千草と名乗った女術士の言葉を思い出し――
(聞かなきゃ良かった)
もう一度、溜息をついた。ほんとに、どーしたもんか、と生徒やネギに悟られないように気をつけながら内心で頭を抱えて懊悩する。あないなこと聞かされたら――
「た、タダオ!」
「んあ? どうしたネギ?」
内心に重く圧し掛かるなにかから逃れるように、横島は声をかけてきたネギに振り返った。
「悪いけど、ちょっと手伝って!」
言いながら指差すネギの視線の先には、
「まだ酔っ払っとんのかい」
いまだ酔いに目を回している教え子たちの姿があった。仕方ない、と肩を竦めて横島は新田や瀬流彦といった同行しているほかの教師たちに気付かれないように生徒たちを旅館の中に移動させる。
「タダオ、これって――」
「まぁ、考えられる限りアホな真似だが――西の連中の仕業だろうなぁ」
やっぱり、と暗い顔をするネギに、横島はこの子供であれば、いったいどう動くだろうかと考える。果たして、誰も彼もが納得できる答えを見つけることが出来るだろうか。自分では、いろいろな柵が邪魔をして、その答えを導き出せそうにない。出来るのは精々――
「タダオ――あ、ううん」考え込んでいる横島に何か言おうとしたネギは、だがそれを口にする前に思いとどまって首を振る。「ボク、頑張ってみるよ」
横島には頼らない。自分の――自分たちの力でなんとかしてみせる。ネギのその思いから発せられた言葉は、今の横島の内心の問いに答えたようでもあった。思わず、横島は目を丸くし――
「よし、ガンバレ」
この旅でも静観することにした――静観しか出来なくなった自分と違い、幼いがゆえに未熟で、それゆえに何物にも縛られることのないネギに憧憬のような感情を抱いた横島は、小さな微笑を浮かべて頷いてみせた。
「京都ぉ――――――っっ!!」
「これが噂の飛び降りるアレ!」
「誰かっ! 飛び降りれっ!!」
「では拙者が――」
「おやめなさいっ」
「誰か飛び降りたぞ――――っっ!!」
「あはははははははははははは!!」
「横島先生、アレって…………」
「私は何も見てない。見てないからな」
修学旅行で清水寺といったらこのネタしかなかろうと思いつつ最近の若い子に通用するんじゃろかと不安になっている山道ですこんばんは(※挨拶)。しまった前回の出だしと同じだ。三十三間堂が原作で出てたら一〇〇メートル走ネタが出来たんだがなぁ(※するな)。それは兎も角、今週も金曜に更新できるか微妙だったので一日早く更新してみたわけですがどうか。来週こそは金曜更新で。では、また来週ー。
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