無題どきゅめんと


「あ、タダオおは――ど、どうしたのタダオ?」

 ネギ・スプリングフィールドは、修学旅行三日目の朝食を摂らんと大広間に向かっている途中で、恩人であり同僚の横島・多々緒に声をかけようとして、思わずぎょっとした声を漏らした。自分の声に振り返った横島の表情は、まるで冥府から迷い出た幽鬼か、あるいはこの世の凡てを悔いている咎人のようであった。

 昨日は昨日で、体調不良のおかげであまり顔色の良くない横島であったが、今日のはそれに輪をかけて酷い。ネギでなくとも驚いてしまうに違いない。ネギが横島のあまりの表情のアレさ加減に言葉を失っていると、まるで焦点の合っていない眼で、横島が口を開いた。

「誰だ――ああ、ネギか。おはよう、いい天気だな」

 ふふふふ、と乾いた笑いを漏らしながら虚ろな笑みで挨拶の言葉を口にする横島に、ネギは思わず後ずさる。とはいえ、おはよう、じゃあまたあとで――と逃げ去ってしまえるほどに、ネギは薄情な性格ではなかった。横島の様子に得体の知れない薄気味悪い思いを抱きながらも、ネギは声をかけた。

「うん、おはようタダオ――ところでとんでもなく顔色悪いけど」

 なにかあったの? ネギがそう口にした途端、

「――――」

 横島の表情が劇的に変化した。まるで生気を感じられぬ表情に浮かんでいた虚ろな笑みが消え、まったくの無表情に。そして次の瞬間、何かを思い出して深く後悔したような表情を浮かべたかと思うと――

「うわわわわわわわわわっ!? た、タダオっ! なにしてるんだよっっ!!」

おぉぉおおぉぉおおおおぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉっっ!?

 突如奇声をあげて、横島は手近な壁にガツガツと頭を打ち付け始めた。めっさめら全力で。ごつ、がつ、がつん、と鈍く固い音と奇声を周囲に振り撒く横島の様子に、周囲にまばらに見られる通行人が何事かと振り向き――距離をとる。今の横島は、誰の目にもちょっとばかりアブナイき印さんに見えたようだ。

「タダオ、血っ! 血っ! あと壁凹んでるよっっ!!」

 ホテルに弁償しないといけないよ! とネギが慌てて叫ぶと、それを合図にピタリと横島の奇行が止まる。弁償という言葉が横島を正気へと連れ戻したらしい。根っからの貧乏性であった。周囲に壁の構造材と血糊を撒き散らした横島は、ネギの言葉通りにダクダクと頭部から血を流したスプラッター映画顔負けの心臓の弱い人にはお勧めできない有様で、あらためてネギに向き直った。

「――おはよう、ネギ。いい天気だな」

「――それさっきも言ったよ、タダオ」

★☆★☆★

 ホテル嵐山は、ほんの数刻前までの静けさがまるで嘘のような喧騒に包まれていた。凡ての風が凪いだ直後に訪れる嵐に見舞われていると表現してもいい。暴風圏内に吹き荒れる猛風さながらに猛り狂っているのは、言うまでも無く2−Aに属する女生徒たちだった。プロデュース:アルベール・カモミール、主催:朝倉・和美の手による宴――『ネギ先生とラブラブキッス大作戦』に参加している彼女たちは、あるものは優勝景品目当てに、あるいはそのものずばりネギの唇目当てに、暴走の限りを尽くしている。

『鬼の新田』こと新田教諭たちに武運つたなくお縄につき、脱落してしまったものも数名存在していたが、いまだ半数以上の女生徒たちは意気軒昂、目当てのもののために闘志を燃やしまくっていた。

 一方、脱落した女生徒――長谷川・千雨と明石・祐奈の二名は、敗者たるの無様をロビーで晒していた。ロビーの床、あまり毛足の長いほうであるとは言い難いカーペットに覆われたそこに正座させられている。

 しばらくして、なにやら四人のネギたちと乙女の唇をかけた競争者たちが闖入してネギたちが爆発したりその爆発に新田が巻き込まれてダウンしたりしたが――それ以降は、自分たちの呼気以外に聞こえるもののない、まったくの静寂に包まれている。

「ねぇ、長谷川」

「なんだよ」

 その静寂に――あるいは足を襲う痺れに耐え切れなくなったように、祐奈が口を開いた。昨今の洋風の生活に慣れきっている現代っ子な彼女たちにとって、正座、それも長時間の正座というものは苦行以外のなにものでもなかった。事実、座って五分と経たぬうちに足の痺れが尋常ならざるレヴェルになっていた。

「ふと思ったんだけどさ」祐奈は視線の先に転がっているものを見ながら口を開いた。「そこで新田せんせーが気絶してるんだから、律儀に正座してる必要ってなくない?」

「却下だな」

 遠回しに、足を崩そう、あるいはズラかろうと提案してくる祐奈の言葉を、千雨はあっさりと斬って捨てた。そんな千雨の態度に、祐奈はなんでよー、と頬を膨らます。悪くない提案だと思っていたらしい。あるいは、足の痺れが我慢できないレヴェルにまでなっているか。

「確かに、新田のヤロウ――」千雨は、自分も倒れ伏している新田に目をやりながら言った。「――随分気持ち良さそうにおねんねしちゃいるが、別に二度と目を覚まさないってワケじゃねぇ」

 気持ち良さそうに、という自分の表現とは裏腹に、ときおり魘されている新田の様子を矯めつ眇めつしながら、千雨は言葉を続けた。

「目を覚ますのが明日の朝か、ほんの五分後かは知らねぇが――だからこそ、ここでトンズラなんかできねぇよ。考えてもみろ? 新田が目を覚ましたとき、アタシらが足を崩しててみろ。あるいはその場にいなかったら? 正座よりタチのわりぃことになるのは目に見えてる」

 だから、却下だ。千雨はそう言って黙り込んだ。千雨からしてみれば、正座は明日の朝まで我慢すればいい話だ。だが、その期限の決まりきった罰から逃げ出したことが判れば――ただでさえ面白いとは言い難い修学旅行が、その残りの期間、とんでもなく面白くないことになるのは目に見えていた。中学生とは思えぬほどに損得勘定に長けた千雨にしてみれば、そのようなリスクばかりが大きく、リターンのない行為は御免被りたいというところだった。

 とはいえ、逃亡への欲求は大きい。彼女にしても、足を襲う痺れはかなり抜き差しならないレヴェルに達していた。が、リスクしかない欲求を無責任に解消するつもりはない。千雨は、足を解放することの代償行為に、さきほど祐奈がそうしたように、口を開いて気を紛らわせることにした。

「――にしてもよ」

「うん?」

 自分の声に首を傾げながらこちらの方を向いた祐奈に、千雨は眼鏡の位置を直しながら言った。

「どいつもコイツも、あんなガキンチョとキスすんのがそんなにいいのかね」

「およ? 長谷川はネギくんのこと嫌い?」

「好き嫌いじゃねぇよ」千雨は溜息をつきながら言った。「歳だ、歳。あんなションベン臭い、おむつも取れてないようなガキとキスして何が楽しいのかって言ってるんだよ?」

「いや、流石におむつは取れてるっしょ?」

「喩えだ、莫迦野郎」まんま受け取るんじゃねぇよ、と千雨は毒づいた。「同年代、もしくは年上のイケメンが相手っていうなら話は判る。判るけど――ガキだぜ? いくらオツムの出来がよかろうと、先生やってようと、ほんのガキ、正真正銘、掛け値無しのガキなんだぜ?」

 ワケわかんねぇよ、と首を振る千雨に、祐奈は少しばかり首を傾げて考え込んだあとで口を開く。

「まき絵がね」

「バカピンクがどうしたって?」

「うん、そのバカピ――じゃない、まき絵がね、こないだ言ってたんだ」友人の顔を思い出しながら、祐奈は言った。「ネギくん、時々わたしたちよりもオトナっぽい顔してるって。すごく、ものすごく遠くを見つめてる――オトナの眼をしてるときがあるって。言われて、わたしも気付いたんだ。ネギくん、普段は子供っぽかったり、時々頼り無かったりするけど、実はわたしたちよりもオトナなんじゃないかって。だから、かな?」

 さきほどまでのすっ呆けた受け答えとは程遠い、しごく真剣な祐奈の言葉に、千雨は思わず驚きを隠せないでいた。まさか、ここまで真剣に考えていると――単なる浮かれた色恋のハナシをこえたところで話しをするとは、思ってもみなかったのだ。

 そして、千雨は驚くのと同時に、強い羨望を覚えた。

 ネット中毒――とまではいかないが、ありとあらゆる(有益無益は別として)情報が溢れかえっているネットを泳ぎ渡っているうちにスレてしまった自分には持ちようのない、ひどくまっすぐな表情に、思いに、千雨は言い表しようのない得も言えぬ羨望を覚える。

 とはいえ、それを表情に、態度に、言葉に出すほど、千雨はストレートな性格をしていなかった。まっすぐな表情を浮かべている祐奈に、なにか応えようとして言いあぐね口を噤み、ということを何度か繰り返して、千雨は、憎まれ口のようなものを口にしていた。

「――ったく、どいつもこいつもショタ野郎が。んなモンいいんちょの莫迦だけで充分だっつーの」

「だーかーらー! そーいうのじゃないってばー!!」

 祐奈が頬を膨らませて抗議した瞬間、

「おっ! 子供先生?」

「あっ! 本屋ちゃん?」

 ほぼ同時に、今宵の景品の一つと、宴の参加者たちがロビーに姿を現した。この場には、千雨と祐奈、そして気絶している新田以外に、他に人影はない(千雨たちから見えない影に、刹那と明日菜が姿を現しつつあったが、千雨たちがそれに気付いてはいない)。つまり、それは――

「ふン。本屋が優勝かよ」

「かーっ!! まさか大穴がくるとはっ!!」

 そういうことだった。本屋――のどかの他に、夕映もいるが、彼女にネギの唇を争うつもりはないらしい。ゆえにこそ、今宵の勝者は決まったも同然だった。勝敗にさして興味のない千雨や、興味ありありの祐奈を蚊帳の外に、景品と参加者はなにごとかを話している。勝敗自体には興味がないものの、何を話しているのか気になる千雨、勝敗も、何を話しているのかも気になる祐奈は、二人の会話に空飛ぶ子象のように耳を大きくするが、どうにも聞き取れない。

 そして、景品と勝利予定者が何事かの合意に至り、ロビーから立ち去ろうとした瞬間――

「おっ!」

「あっ?」

 闘争を放棄し、勝利を友人に譲った参加者――綾瀬・夕映のおせっかいによって、景品たるネギの唇は勝者にあたえられた。ホテルから――ホテルにいる、観覧者たちから怒号のような歓声が沸き起こり、

全員朝まで正座だっっ!!

 その凡てを収めるべくデウス・エクス・マキナたる新田の――誰もが恐れる『鬼の新田』の怒声がそれを制した。こうして、『ネギ先生とラブラブキッス大作戦』は、その参加者全員および仕掛け人の朝まで正座という結末で決着をみたのだった。

★☆★☆★

「う、ううん」

 一方、その頃ぱーぺきにダウンしている横島・多々緒は女教師部屋――微妙にエロスの香り漂う通り名で生徒たちに呼ばれているその部屋で、収まることのない生理痛に魘されていた。正直、辛すぎて意識を途絶することすら叶わぬ、といった状態だった。

 かといって、目が冴えて冴えて仕方ない――というわけでもない。

 腹部から響いてくるヘヴィ級の世界チャンプが放つボディブローのような鈍痛は、確実に横島の意識を削っている。外からの打撃ならば耐えようもあるが、なまじ腹の内から響いてくる類の痛みだったので、どうにも対処の仕様がない。最初のうちは薬が効いていたのでそうでもなかったが、その効果が切れてしまうと、あとは地獄が待っていた。

 正直、途中で糸目の忍者娘と褐色のカンフーガールに水を飲ませてもらったような気もするが、今の横島にはそれが夢だったのか現実だったのかの区別もつかないでいた。

 そうした具合に、横島がこの世凡ての厄災を受けているような苦しみにのた打ち回っているとき――不意に、暗闇に閉ざされた女教師部屋に、一筋の光が差し込んできた。どうやら、麻帆良の武戦派二人組みに続いて誰かがこの部屋を訪れたようだった。

★☆★☆★

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、固い意思が容易に見て取れる表情で、廊下を進んでいた。が、その歩調は、常のような、あるいは今現在顔に浮かべている表情に見合った威風堂々とした颯爽としたものではなかった。

 むしろ、歩むことを恐れているようにも見える。あるいは、歩み辿り付く先に待っているものを恐れている、というべきだろうか。事実、エヴァンジェリンは時折その表情を揺るがせ、廊下を行く歩みを止め――が、すぐに自身の胸のうちに訪れた弱い心を振り払い、再び歩みを再開するということを何度も繰り返している。

 たとえどれほど恐ろしく思えても、今宵のエヴァンジェリンに退く気は微塵も存在しなかった。陽光に照らし出されたあの場所で、弱者が見せた賛嘆の念を覚えるしかない勇気を目にしたあととあっては尚更だった。

 とはいえ、歩調はやはり帰り道を違えた幼子のように不安に満ちたものであった。そして、その頼り無い歩調で廊下を目的の場所へと進んでいたエヴァンジェリンは、

「っ!!」

 不意にその身を強張らせた。

 視界の先に存在する曲がり角から、背の高い糸目の女生徒と、褐色の肌を持った女生徒が現れたためだ。惰弱な――逃げたいと願う心とせめぎ合うようにしているエヴァンジェリンは、思わずその歩みを止めた。が、次の瞬間、ぎり、と奥歯を鳴らすと、つとめて何気ない表情を作り、こちらに向かって歩いてくる二人組みとすれ違った。すれ違う瞬間、糸目のほうが――その腕前に彼女も一目置いている長瀬・楓が怪訝そうな表情を浮かべていたが、何も言われなかった。どうやら、彼女たちが歩いていったさきで発生した騒ぎに巻き込まれたらしい。そのことに、エヴァンジェリンはほっと息をつく。正直なところ、今の自分は、あの甲賀中忍にその目的を尋ねられた場合、うまく言い逃れる自信がなかった。

 そして、ほっと安堵するその一方で、エヴァンジェリンは強い不安を覚える。彼女たちが歩んで来た方向には、自分の目指す目的の場所が、エヴァンジェリンが自分のものと高言して憚らない横島・多々緒のいるであろう女教師部屋があった。エヴァンジェリンの見たところ、あの甲賀中忍は横島への興味を深めているように見える(実際はそれどころではなく、弟子入りまでしてしまっている)。2−Aには、他にも横島に興味を持っているものたちがいたが、あの甲賀中忍はそのなかでも一際横島に興味を持っているように思えてならなかった。

 その、甲賀中忍――中学生という年代からすると反則気味というかまんま反則な、横島好みのプロポーションを持った長瀬・楓が横島のいる部屋の方向から歩いてきた。その事実に、エヴァンジェリンの心は不安と焦燥に包まれる。かつて横島が麻帆良に生徒として在籍していた時分、オマエはワタシのものだ、と口をすっぱくして言い聞かせていたにも関らず、隙あらば他の女にこなをかけていたという事実が、それに拍車をかけていた。あの頃、横島は自らの周りにいる自分を慕ってくる女生徒に甘い言葉を囁き、源・しずなに性犯罪者紛いの真似をし、なにやらやさぐれている葛葉・刀子を篭絡しようとしていた。まぁ、女生徒たちのほうは自分が裏から脅しつけて諦めさせていたし、しずなは横島のことを完全に子供扱いして軽くあしらっていたし、刀子はそのケがないのか、あまり横島に靡いていなかった――仲は良かったようだが――のだが。だが、そうした事例があるからこそ、エヴァンジェリンの心は不安にかられる。

 それまで、迷いに満ち満ちていたエヴァンジェリンの足取りは、いつしか何かに急かされるように、勢いのある、迷いの欠片も見つけることの出来ないものになっていた。気が付けば、すでに目的の場所は、目の前に存在していた。女教師部屋のルームナンバーがステンシルされたプレートを見上げて、入室の許可を取ろうと扉の向こうに声をかけようとしたエヴァンジェリンは、不意に自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、何処に立っているのか、何処に行こうとしているのか――その凡てに改めて気付き、

「――――っっ!!」

 空恐ろしくなった。忘れかけていた恐怖が、自分を忘れていたエヴァンジェリンに復讐するかのような勢いで舞い戻ってくる。身が竦む。地面がぐらぐらと揺れて気が遠くなるような錯覚を覚える。そうか。エヴァンジェリンは理解した。あの小娘は――宮崎・のどかは、こんな恐ろしいものと戦って、それに打ち勝ったのだな。そのことに、エヴァンジェリンは改めてのどかの見せた勇気のほどに、心の中で惜しみない賞賛を送った。

 扉の前で、震えの収まらぬ小さな躯を抱きしめるようにしていたエヴァンジェリンは、はたしてどれほどそうしていただろう。がちがちと歯の根を鳴らし俯いていた顔をあげると、決然と扉を睨みつけた。自分は、怖気づくためにこの扉の前に立ったのではない。心に刻み込んだ決意を思い出したエヴァンジェリンは、大きく深呼吸すると冷たい金属製のドアノブに手をかけた。回す。鍵はかかっていなかった。そのまま開く。

 ゆっくりと開いた扉の向こうには、暗闇が広がっていた。まるで、このあとの結末を暗示しているような気がして――恐れるな。エヴァンジェリンは脳裏に過ぎった不安を振り払うように頭を振った。

「横島――――いるか?」

 押さえようとしても押さえきれぬ震えを含んだ声で、エヴァンジェリンは部屋の中に声をかけた。が、返事はない。返事はないが――

「よかった」

 夜の眷属であるエヴァンジェリンに、照明を消した程度で生み出せる暗闇などさして意味を持たなかった。エヴァンジェリンの双眸は、その視界に、布団の上に仰向けになっている横島の姿を確りと捉えていた。横島の姿を視界に入れたエヴァンジェリンは、もう一度大きく深呼吸すると、室内へと足を踏み入れた。その足取りは、自分でも驚いてしまうほどに弱弱しかった。気を抜くと、今にもその場によろめき倒れてしまいそうな気がしてならなかった。

「横島、寝ているのか?」

「う、ううん」

 問いに返ってきた答えは、意味を持つ声ではなく、魘される声だった。エヴァンジェリンが思っていたよりも、横島の体調は思わしくないようだった。その様子を見て、エヴァンジェリンは、月のモノが来たときの横島が、いつもこうして魘されるようにして眠るとも起きるともいえぬ夜を過ごしていたことを思い出した。

「横島――――」

 過ぎ去りし日のことを思い出したエヴァンジェリンは、心身を襲う得体の知れぬ震えのことなど忘れたように、誘蛾灯に引き寄せられる蛾のごとく、横島の元に近寄っていく。魘される横島を見下ろせる、彼女の枕元に立ったエヴァンジェリンは、ゆっくりと其処に膝をついた。脇にあるかたちの横島の顔、その頬に、そっと手を添える。

 いつも、こうしていたな。

 きめ細かい肌の横島の頬を優しく撫でながら、エヴァンジェリンは記憶の中に今も鮮やかに残っている過去を思い返した。普段は、自分を子供扱いする小娘が、魘されている横島が少しでも安らぐようにと、その頬を、頭を撫で続け――夜を明かしていた。

 懐かしい記憶を、自分の行為に思い出していたエヴァンジェリンは、小さく笑みを零した。思う。ああ、こうして、いつまでも、いつまでも――――

(っ!! この、戯けっ!!)

 自分が思ってしまたことに、何一つ変わらぬ現状の維持ということに、エヴァンジェリンは内心で罵倒の言葉を漏らした。優しい過去に、自分の目的をつい見失いそうになってしまった己の不甲斐なさに、エヴァンジェリンは怒りを覚える。その気分のままに、エヴァンジェリンはすくっと立ち上がった。キっ、と先ほどよりも少し楽そうな横島を睨みつける。睨みつけて、

「ううん?」

 エヴァンジェリンは、横島の細い腹の上に跨った。腹部にさして重くはないとはいえ、ヒト一人分の重さを加えられた横島は、小さく唸った。虚ろな眼を開き、それが夢か現実かすら定かでは無いようすで、加えられた重みを確認し――

「エ、ヴァ――ちゃん?」

 呂律の回ってない舌で、その名を呼んだ。が、エヴァンジェリンは応えない。変わりに、身を前に乗り出すようにして、横島の纏っている浴衣、その胸元に手を置いた。置いた手のひらから、横島の体温と、その裡で脈動する心臓の鼓動が伝わってくる。その感触をしばし味わったエヴァンジェリンは、ややあって、ゆっくりと横島の胸元に手を這わせはじめた。エヴァンジェリンの手の動きが範囲を広げるにつれて、横島の浴衣、その胸元が肌蹴ていき、浴衣に覆われていた白い肌が露になる。

「エヴァ――ちゃん」

 この段になると、横島の意識も、夢よりも現実のほうにウェイトが傾いてきたようで、自分の胸元を口を閉ざしたまま弄るエヴァンジェリンに向けて、困惑したような、それでいて呂律の回らない声でその名を呼ぶ。が、起こせるアクションはそれだけだった。重い身体は、まるで金縛りにあったように動かない。

「横島」

 それまで黙って、横島の肌に手を、その指を這わせ続けていたエヴァンジェリンは、吸い込まれるような錯覚を覚える深く澄んだ瞳で横島の双眸を覗き込みながら、静かな、だが、強い意志を感じさせる口調で口を開いた。

「横島――オマエはワタシのものだ」

「エヴァ、ちゃん――なに、を」

 困惑を更に深めた声で再度問う横島を無視して、エヴァンジェリンは重ねて言う。

「オマエは、誰がなんと言おうと。――オマエは、ワタシのものなんだ」

 その言葉を口にして、エヴァンジェリンは口を噤むと、覚悟を決めたように、自分の顔をゆっくりと横島のそれに近づけていく。迫ってくるエヴァンジェリンの上気した顔に、何が、と横島は思い――次の瞬間、

「――――っっ!?」

★☆★☆★

 オコジョ妖精、アルベール・カモミールは自らが智慧袋を任じている子供先生に付き合って――あるいは、今宵の共犯者である朝倉・和美に付き合って、ロビーで無聊を囲っていた。結局のところ、今宵彼が生み出すことが出来た仮契約カードは、ただの一枚であった。残るはスカカードばかり。妹のためにも、百万長者になれなかったのは、ネギのために、仮契約(パクティオー)カードを多く作れなかったのは残念だが、まぁ、急場の仕込みで出来るものはこの程度か、と深く考えないようにしている。自分がサポートしていこうと考えている少年が、少女たちと過ごす時間はまだ何ヶ月とあるのだ。やろうと思えば、いつだって今日のような仕掛けを準備することが出来る――少なくとも、カモはそう考えることで、得るものの少なかった今宵の慰めとすることにしていた。

 とはいえ、たった一枚だけの仮契約カードだが、カモの見たところ、あのカードは中々に使えそうな感じがする。やはり、宮崎・のどかに眼をつけた自分の嗅覚は正しかった――そう考えたカモは、そういえば、と首を捻った。結局、アレはどうなったんだ?

 そこまで考えた瞬間、乱痴気騒ぎが終わったあともホテルを囲むように設置され、放置され続けている魔方陣が発動するのを、カモはその感覚で捉えた。

★☆★☆★

 結局、アレは夢や。夢やったんや。夢に違いないねん――と呟きながらネギと碌に会話もせずに大広間に入った横島は、ほとんど無意識のうちに食事を済ませていた。それなりの味であったはずのホテルが供してきた朝食は、そのメニューすら覚えていなかった。まるで夢遊病者を思わせる足取りで大広間をあとにした横島は、なおも心配するネギに乾いた笑いを残して分かれると、げっそりとした様子でロビーに降りた。とりあえず、ソファーに腰を下ろしたところで、

「おい、横島」

「――――!」

 背後から声をかけられた横島は、びくんと身体を震わせた。ぎ、ぎぎ、とまるで油のきれた蝶番を軋ませて開く扉のようにぎこちない動きで、横島は声のした方を振り返った。はたしてそこには、

「――いい朝だな、横島」

「吸血鬼がいい朝ってのもどうかと思うぞ、エヴァちゃん」

 金髪の幼女が腕を組んで立っていた。薄い胸を威風堂々と言う言葉が――というか、威風堂々という言葉しか似合わぬ様子で張っているその態度は、いつもの彼女だった。だが、浮かべている表情が少しばかり違う。常であれば、挑むようであり、睥睨するようであるその表情は、今朝に限って、まるで何かを恥じるような、照れているようなそれで溢れていた。よく見れば、僅かに頬が上気して白磁の様な肌が桜色に染まっているのも見て取れる。

 悪い予感が、した。

「オマエに渡すものがある」

 ああ、カミサマ。横島は顔に苦痛の二文字を刻む。エヴァンジェリンは、もじもじと顔を俯かせたり、右を見たり左をみたりと忙しいせいで、そのことには気付いていない。

「オマエの、ものだ」

 ああ、カミサマ。横島は辛うじて声には出さず、そう呻いた。カンタダという名の罪人が地獄の底で掴んだという蜘蛛の糸よりも細い光明にかけて、横島は尋ねた。

「つかぬことをお聞きしますが」横島は、自分の前に差し出されたそれと、エヴァンジェリンの顔を引き攣った笑みで見比べながら言った。「コレはなんでございましょうか?」

「うん? オマエ、見たことないのか――仮契約カードだ」

 ほら、オマエの姿が描かれているだろう? 言って、ようやくエヴァンジェリンは怪訝そうな表情を浮かべ、横島の顔をまともに見た。そこには、

「あは、あははははははははははははははははははは」

 俺はロリコンじゃないのに、俺はロリコンじゃないのに、と虚ろな眼で呟く横島の魂の抜けた抜け殻のような姿があった。そんな横島の様子に、エヴァンジェリンはむすっとした表情を浮かべる。背伸びして、横島の胸倉を乱暴に掴むと、自分の顔の高さまで横島の顔を引き摺り下ろした。いきなりのことで眼を丸くしている横島の顔を覗きこむようにエヴァンジェリンは言った。

「いいか、横島。昨日も言ったが、オマエはワタシのものだ。ワタシだけのものなんだ。それはその証だ。昨日の口付けは、その誓いだ。いいな、忘れるなよ? 何があっても、絶対に忘れるな」

 言って、エヴァンジェリンは、

「――――!?」

 その告白に眼を剥いている横島の唇を強引に奪った。虚を突かれた横島が碌にアクションを起こせずにいるのをいいことに、昨夜同様、貪るようにして横島の口内に自分の舌を滑り込ませ、そこにある横島の舌に絡ませる。卑猥な響きの水音が周囲に響く。たまさか、ロビーにいた連中――ネギ・スプリングフィールド、神楽坂・明日菜、桜咲・刹那、アルベール・カモミール――が、顔を赤くしてなにか言っているが、気にもしない(もっとも、カモは顔を赤くしたりせずに、にたにたと下品な笑みを浮かべていた)。

 横島の唇の柔らかさと、舌の熱さを思う存分堪能して、エヴァンジェリンはようやくのことで横島を開放した。不意の出来事にあっけにとられ、先ほどまで好きにされていた唇を抑えている横島の姿が妙に可笑しくて、エヴァンジェリンはくつくつと不敵な笑いを漏らした。

 そうして、自分の前で楽しげな様子のエヴァンジェリンを見て、横島は、

「――――はぁ」

 何かを諦めたように小さく溜息をついた。思う。まぁ、いいか。どういう気紛れかは知らないが――まぁ、俺が珍しくて笑えるからだろう――エヴァちゃんが飽きるまで、付き合ってみるのも悪くない。今の自分の寿命がどんなものかは判らないが、少なくとも、長命種であるエヴァちゃんを残して、ということだけはないだろう。まぁ、飽きられて途中で捨てられる可能性は多々あるが。物珍しいものというのは、慣れれば途端に詰まらないものに成り下がることだし。

 そう考えた横島は、浮かべていた表情を苦笑に切り替えると、仮初の主となった真祖の吸血鬼に右手を差し出した。

「これからよろしく――ご主人様?」


『知ってるようで知らない世界〜 if 〜』第二十一話『接吻の顛末』了

今回のNG

今回はなし





後書きという名の言い訳。

あやうくエロになりかけた。『知ってるようで〜』は全年齢を対象とした健全な読み物デス。ジャンルとテーマは不健全極まりないデスガ(※激しく駄目)。いや、まぁ、唐突にエロいれてもアレなのでくすぐる程度にしてみました。幼女が成熟したナオンを嬲ってる光景を夢想してハァハァする俺はどうだろう(※聞くな)。あと、サブタイには元ネタがあったり。いや、無い回もありますが。判ったヒトは掲示板にでも書き込んでいただければ。でもって来週から通常更新に復帰。月曜までには二十七話を書き上げたいなぁと思いつつ、では、また来週ー。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送