――一番旧い記憶に残っているのは、どんな闇よりも濃い黒だった。

 それは、私から記憶を奪い去り、

 両親を奪い去り、

 親しい人々を奪い去り、

 街を焼き払い、

 私を破壊し、

 私に新しい家族と、とっておきの呪いを残して消え去った。



Fate/stay night

 〜運命の縛鎖〜



朝は苦手だ。昔はそうでもなかったが、いまや私にとって朝は不倶戴天の怨敵と称しても過言ではない。

「過言よ」

 ――内心の独白にツッコミが入った。誰だ、と声のした方を見れば、そこには呆れたような顔でこちらを見る姉の顔があった。

「姉さん、何時から読心術を」

「勘よ。どうせ朝は敵だとかなんとか考えてたんでしょう」

 そこまで察することが出来れば読心術といっても過言ではないような気もするのだけれど。そんなことを考えていたら、相変わらず呆れたような表情を浮かべている姉に頭を小突かれた。

「朝に弱いっていうのは知ってるし、仕方のないことだけれど」一瞬、申し訳なさそうな顔をした姉は、すぐにその表情を打ち消して言葉を紡ぐ。「みっともないからしゃんとなさい」

 みんな見てるわよ、と言う姉の言葉に促されて周りを見れば、HRを前にぼつぼつと自分の席に着き始めている級友たちが苦笑まじりにこちらを見ていた。さして付き合いの長いというわけではないが、それでも私が朝に弱いというのは周知の事実と化しているようだった。

「いや、ほら」

 寝ぼけ眼のまま、私は机に突っ伏した顔をあげようともせずに姉に言う。

「今更しゃんとしても手遅れというかなんというか」

「――詩音」姉が、極上の笑顔を浮かべて私の目を覗き込むようにして口を開く。「しゃんとしましょうか?」

「――ヤヴォール、姉さん」

 雪の妖精を思わせる微笑の向こうに地獄の悪鬼の姿を見た私は、規律に煩いヴェアマハトの士官でも満足するような姿勢と口調で姉に答えた。その様子を見た姉は、本物の微笑を浮かべ、宜しい、と満足そうに頷いた。

「おはよう、詩音。ちゃんと目を覚ましてくれたようで私は嬉しいわ」

「おはよう、イリヤ姉さん。目は覚ましていたんだけどね」

 どうにも調子が出ないというか。そう苦笑まじりに言うと、やはり姉も苦笑まじりに頷く。と、もはや日課と化したやりとりをしていると、

「ふむ、目を覚ましたようだな、衛宮の」

 背後から声をかけられた。独特の言い回しと声に、私は声の主にあたりをつけて答える。

「――いや、起きてたんだけどね。おはよう、氷室さん」

 言って振り向けば、そこには、灰色の長い髪と眼鏡の級友がこれ以上ないくらいの無表情で席についていた。

「朝練は終わり?」

「HRぎりぎりまで練習させようとは顧問も思わないらしいな」

 独特の言い回しで答えたこの級友に、私は苦笑を浮かべた。短い付き合いではあるが、この友人といっても差し支えないだろう級友は、こうした言い回しさえしなければもそっと男子に人気が出るだろうに、と思う。あと、もそっと笑えば。とまれ、それも含めてこの氷室鐘という少女の個性なのだから、それはそれでいいかと一人思う。

「何か失礼なことを考えてはいないか? 衛宮の」

 ――なんで私の周りにはこうも察しの良い人間ばかりが揃っているんだろう。そんなことを考えつつ韜晦。

「まさか。ああ、三枝さん、おはよう」

「あ、おはようございます衛宮さん」

 話を逸らすダシにつかわれた級友は、そんなこちらの意図に気付いた様子もなく、ほにゃり、とした笑みでこちらに会釈しいてくる。そんな邪気のない笑顔に、必要以上に罪悪感を覚える。

「三枝さんも大変だね? マネージャーだっけ」

「鐘ちゃんや蒔ちゃんと違って選手じゃないですから、そうでもないですよ」

 その言葉に、氷室さんの方を見れば、彼女は小さく肩を竦めてみせるだけ。させたいようにさせている、ということだろう。付き合いの長い氷室さんがそれで良しとしているのならば、私が何か言う必要もない。そんなことを考え、苦笑していると、

「いよぉ〜う、衛宮」

 女子高生というよりも、オトウサンな感じの発音で声をかけられた。妙に親しげな、だが、けして不快ではない声の主は、

「おはよう、蒔寺さん」

 陸上部三羽烏――と私が命名した――の最後の構成員、蒔寺楓女史だ。女子高生というか、姉御といった感じがするほどよく日に焼けた小麦色の肌が健康的な級友。まぁ、ほかにも姉御な感じの級友がもう一人いるが割愛。

「朝から元気ね」

「アンタが朝から元気なさすぎなだけだと思うけどね」

「ふむ。蒔の字の言うことも一理あるな」

「で、でも朝が苦手なのは体質だからしかたないんじゃあ」

「ああ、三枝さんは優しいねぇ。よし、お昼のお弁当のおかずを一品あげちゃうよ」

「三枝さん、詩音を甘やかせちゃあ駄目よ?」

「む、衛宮の。弁当のおかずは私としても是非とも――」

 そんな感じで、HR前の時間は過ぎていく。まるで、あたりまえの女子高生になってしまったような錯覚を覚える一時。もっとも、それは単なる勘違いに過ぎず――


 衛宮詩音は、その日の学業をすべてこなすと、姉とともに下校した。純日本的な印象を受ける詩音の顔と、ビスクドールのようなイリヤという名の姉の顔はとてもではないが姉妹には見えない。唯一、彼女たちに共通点を見出すことが出来るのは、ともに真っ白な雪のような髪の持ち主だということだろう。姉妹に見えない、と言われると、二人とも微妙な顔で「母親が違うから」と答えるようにしている。そうすれば、いらぬ追求をうけることが少ない。加えて、まるっきり嘘というわけでもない。事実二人は、母親が異なる。

「姉さん」

 残照に、それを反射する眼鏡の奥で目を細めながら詩音は口を開いた。

「なぁに、詩音?」

 あえて妹の口調に含まれるものに気付かないそぶりを見せて、イリヤはそう背丈の変わらぬ妹に答えた。双眸は、やはり妹と同じように細められている。

「愉しい?」

「そうね、すごく愉しいわ」

 短い問いかけに、イリヤは短く答える。内心で、溜息をひとつ。気にしすぎなのよ、莫迦。そう言ってやりたいが、言ったところで更に気にするだけだと判っているのでイリヤは思うだけで口にしない。

「とても愉しいわ。まさか、普通に学校に行くなんて思ってもみなかったから。寝ぼすけの詩音を急かしたり、鐘たちと他愛もないことを話して笑ったり――ええ、タイガに感謝しなきゃ」

「そう」

 良かった、とでも言うようにそう呟く妹に、イリヤは安堵を覚える。この、自分を、自分の未来を捨て去ってきた妹の心が少しでも安らいだことに、イリヤは安堵する。だが、この穏やかな日々を愉しんでばかりいるわけにもいかない。

「詩音、そろそろ喚ぶ?」

 妹にそれを口にさせるよりは、とイリヤはあえて自分の口で日常を打ち破る言葉を口にした。となりを歩く詩音が、その言葉に面白いぐらいに反応する。びくん、と体を硬直させ、立ち止まった詩音は、深く息をすると、口を開いた。

「そう、ね」凡てはまやかしに過ぎない、そう思い直して、詩音は姉に答えた。「冬木のセカンドオーナーもそろそろ喚び出すでしょうし――ええ、そろそろ喚びましょうか」

 もう少し。

 もう少しだけ、自分が、自分たちがただの女の子だと錯覚しておきたかった。詩音はそう思ういながら、歩みを再開させる。

「切嗣の残した召喚陣はチェック済み?」

「ええ、勿論」

 イリヤの問いかけに、詩音は小さく頷いてみせた。触媒は一〇年前からずっと持っている。喚ぼうと思えば、今ここで喚び出すことだって出来るだろう。だが、二人は念には念を入れてことをすすめる腹積もりだった。触媒は充分。召喚者の魔力は十全とはいわないが、不足はない。ならば、時が満ちるのを待って、十全たる手順をもって――喚び出す。

「ときに詩音。今日の夕餉は何かしら」

「うん姉さん。今のでシリアスな雰囲気ぶち壊し」

 がくりと肩を落とす詩音に、イリヤはその人形のような顔にはまるで似合っていないけらけらという笑い声を持って答える。

「いや、だって詩音の作ったご飯美味しいんだもの。最初は驚いたわ。詩音が料理できるなんて知らなかったから」

「向こうじゃ機会がなかったからねぇ」

 放っておいてもご飯出てきたし、と愚痴るように呟く詩音に、確かに、とイリヤは頷いた。どちらかといえば居候のような立場だったが、まるで王侯貴族のような生活だった。気の休まる時間は少なかったけれども。

「ああ、そういえばタイガは今日も来るのかしら」

「来ると思うわ。十中八九」

 何気なし呟いたイリヤに、詩音は溜息まじりに答えた。

「それじゃあ、喚ぶのはタイガが帰ったあとね」

 その言葉に、詩音は暗示でもなんでもかけて今日は来ないように――と考え、頭を振った。どのみち、喚び出すのは深夜だ。ならば、あの虎が夕食をたかりに来ようと問題はない。加えて言うなら、あの自分を、自分のような存在を気にかけてくれる心優しい姉に、暗示だのなんだのという真似をするのも心苦しいし、あのはっちゃけた虎が来ることで、自分の隣を歩く血の繋がらない愛しい姉に、家族の暖かさというものを幾らかでも味合わせてあげることが出来る。

 そこまで考えて、詩音は、くっ、と喉を鳴らすように自嘲する。ああ、そうだ、自分では姉に上げることが出来なかったものだ。不甲斐ない。なんて不甲斐ない――そんなことを考えていたら、

「〜〜〜〜ッッ!?」

 蹴られた。

 脛を。

 爪先で。

 思い切り。

「な、姉さん、一体何を!?」

「別に。蹴りたくなったから蹴っただけよ」

 その言葉に、詩音は痛みに涙を浮かべながら思う。

 暴君。なんたる暴君。

 そんなことを思う詩音の心からは、先ほどまでの砂を噛むような思いは綺麗に消え去っていた。

(ほんとにこの愚妹は)

 恨めしそうにこちらを見る詩音の表情を一瞥したイリヤは、ふン、と鼻を鳴らして歩きながら思う。どうせまた益体もないことを考えていたに違いない。あの顔は、そうしたことを考えている顔だ。イリヤは、自分の妹のそうした表情がこの世の何よりも気に入らなかった。自分に、家族を取り戻してくれた妹が、くだらないことでうじうじとしているのが気に入らなかった。だから、蹴った。思い切り蹴り飛ばした。慰めの言葉で、妹の気持ちを晴らしてやることが出来ないと知っているから蹴った。

(なんのために間の抜けた話題を持ち出したと思っているのよ)

 イリヤはぷりぷりと怒りながら、ずんずんと詩音を置いて歩を進める。妹が、自分に与えてくれた、本来ならば望むことすら罪悪といってもいい平穏で普通の日常を終わらせることに重い気持ちになっていることを気遣っての発言だというのに、あろうことか妹はそこから思考を飛躍さえて益体のないことを考えていたようだ。これでは、何の為に道化を演じて見せたか判ったものではない。

 これでは本当に道化だ。ただの食いしん坊だと思われた挙句、自分の目論みが見事に外れてしまっては道化以外の何物でもない。いや、確かに、最近はよく食べるから食いしん坊だと思われても仕方ないのだけれど。それでも、あの朝と夜に襲来する野生動物よりも食べる量は少ない。だいたい、詩音がつくる料理が美味しいのがいけないのだ。あの城で出されていた料理も確かに美味しかったが、詩音のそれはさらに美味しい。だから、いけないのは詩音なのだ。

 そこまで考えたイリヤは無性に腹が立ち、振り返って足を引き摺るようにしている詩音の鳩尾に向かって小さな拳を叩き付けた。

「何故にっっ!?」

 理不尽に向かって叫ぶ妹の情けない顔が、奇妙に愉しかった。













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