二つだけ。
ただ二つだけのことを遺して何も憶えていない私が目覚めたのは、随分と騒がしい病院の一室だった。あとで知ったのだが、冬木の病院はこのとき、市制始まって以来、未曾有の大火災に罹災し、傷を負った人々でどこもえらい騒ぎだったらしい。私の担ぎ込まれた病院もそうだった――らしい。そのときのことは、よく憶えていない。
何しろ、そのときの私ときたら生きているのが不思議なくらいの傷を負い、病院よりも埃及のピラミッドのほうが似合いそうな包帯でぐるぐる巻きにされた見事な重症者だったのだ。麻酔の効きが良すぎたのか、どうにも意識が朦朧としていて、他に気を廻そうなどと思いもしなかった。
そして、ベッドの上で何日過ごした日の事だったか。
奇妙の風体の男が私のもとを訪れた。その男を見たとき、碌な記憶が残っていない私の脳が疼いたような気がした。
「あー、うん。はじめまして」
困ったような、不思議な笑みを浮かべた男はベッドの上で寝たきりになっている私の顔を覗き込むようにしてそう言った。そのときの私は、医者が驚くほどの回復を見せ、ケロイド状になっていた顔も多少は見れるようになっていたから、傷の酷さにどういう顔をしたものか困っていたわけではないと思う。
「キミは、見知らぬおじさんに引き取られるのと、孤児院に預けられるの――どっちがいいかい?」
今にして思えば、寝たきりの子供に対して碌な前置きもなしにそんなことを言う彼は、少しばかり変わっていたと思う。麻酔で胡乱になっている上に、唐突にそんなことを言われた私は咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。しばらく二人して――返答を待つ彼と、答えに窮する私――は黙り込み、周囲には、医者や看護士たちの作り出す喧騒だけが満ちている。
いったいどれだけそうしていたのか。
先に口を開いたのは、私だった。
“だれ?”
火傷の影響か、巧く発音できなかったが、とりあえずそうたずねた。答えではなく問いがきたことに、彼は少し驚いたあとで苦笑した。
「ああ、自己紹介がまだだったね? うん、御免御免。僕はね、衛宮切嗣っていうんだ。ちなみに、キミの親類縁者でもなんでもない」
だから、引き取るといっているくせにそういう不安を煽るのはどんなものだろう。まぁ、とりあえず答えを得られたことに満足した私は小さく頷いた。私が頷くのを見た切嗣は、笑みを浮かべた。そうして、とりあえず回答を得るよりも会話を試みることにしたらしい。私の名前を尋ねてきた。
“しろう”
私は、私が覚えている二つのうちの片方を口にした。姓は憶えていなかった。
「うん、し――、しおん、しおん、ね。どんな字を書くんだろう?」
聞き取り難かったせいか、切嗣は私の名を聞き間違えていた。が、正そうとは思わなかった。そのときの私は、怪我で体力が削られ、彼が訪れる前に与えられた麻酔でひどく億劫な気分になっていた。名が『しろう』だろうと『しおん』だろうとどうでもよかった。
「それで、しおん。キミは僕に引き取られるのと、孤児院に行くのとどっちがいい?」
――会話しようよ。胡乱な頭でも、そう思った。ひどく億劫な気分が加速したような気分になった私は、面倒になり、“あなたでいい”と答えていた。その答えに、切嗣は酷く嬉しそうな表情を浮かべた。傍目から見ても随分浮かれていたように思える。
「ああ、それじゃあもう少しキミの容態が落ち着いたら迎えに来るから。うん、今度買った家はかなり広いから愉しみにしておいて。それじゃあ、また。明日も来るよ」
そう言って病室をあとにしようとした彼に、私は我知れずたずねていた。何故だか、彼ならば答えられる――そんな気がしていた。
「あの黒い泥は、何?」
その問いは、何故だかはっきりと口にすることが出来た。
「――衛宮の。今日はいつにも増して眠そうだな? 目覚ましの姉はどうした」
ぐでー、と朝の教室、その自分の机に突っ伏している詩音に氷室鐘は声をかけた。詩音が朝はゆるゆるな感じでいい具合に駄目なことは知っていたが、今日は輪をかけてあれな雰囲気だ。加えて、その低血圧クラスメイトに気合を入れる、同じ髪の色をした顔の似ていない姉の姿も見えない。
「あ゛ー、おはやう氷室さん」
眼鏡仲間のクラスメイトの声に、詩音はぞろり、と音がしそうな調子で机から顔をあげると地獄の底から響いてくるような声で朝の挨拶をする。そんな詩音に、鐘はわずかに顔をしかめてみせた。
「本当に眠そうだな、衛宮の。おはよう」
「昨日、夜更かししちゃってね。あと、姉さんは体調不良。もとから体が丈夫なほうじゃないけど、慣れない土地で寝起きしてたことでストレス溜まったみたいで熱出しちゃった」
すらすらと嘘をつく詩音。前半に関してはまるきり嘘というわけでもないが、後半に関してはまったくの嘘である。もっとも、詩音は疑われるようなことはないだろう、と思っている。あの自分と同じ髪の色をした姉は、丈夫だの頑健だのといった印象からはほど遠い存在だ。実際は違うのだが、姉、イリヤはその雪の妖精を思わせる容姿から、どうしても儚げな印象を受けてしまいがちだ。五年ほどともに過ごしている詩音からしていまだにそんな印象から脱却できないでいるのだ。一ヶ月ほどしか――それも学校での付き合いのない他の人間ならば、詩音の嘘もなるほど、と納得してしまっても無理はない。
「ほんとは付きっきりで看病したかったんだけどねぇ。そう言ったら姉さんや虎にあんたは学校行って来いて言われちゃったよ」
「ふむ。相変わらず姉に対しては過保護気味だな、衛宮の?」
「過保護?」
机の脇のフックに学生鞄をひっかけて自分の席についた鐘に向き直って、詩音は首を傾げた。
「自覚がないのか?」
きょとんとしている寝惚けまなこの詩音に、鐘は苦笑。一限目で使う教科書とノートを机の上に広げながら、鐘は詩音に諭すような口調で言う。
「それとなく観察――とまではいかないが、ちょっと見ているだけでも衛宮のが、あの小悪魔娘に異様なまでに世話を焼いているのは判るぞ? まぁ、あの小悪魔娘もそれを嫌がっている様子はないから第三者の私が何を言うつもりもないが、ね」
「むぅ」
言われてみれば、と詩音は腕を組んで唇をへの字に結んで小さく唸った。確かに、この眼鏡がその秘めた知性を際立たせているクラスメイトの言うとおり、自分はやたらと姉の世話を焼いているような気がする。なんだかんだ言って、朝食も自分が作っているし、身の回りの世話もしている。しかし、それは、
「や、でも妹が姉の世話をするのは当然なんでないの?」
自分の心に浮かんだものとは、別のことを詩音は口にした。
「ふむ。普通は姉が妹の世話をするのだと思うが」
「や、姉さんああ見えて不精だから」
その場にイリヤがいれば、バロールの魔眼じみた視線で睨まれそうな台詞を口にして、詩音はクラスメイトの疑問をはぐらかす。
「イリヤが不精? どうも信じ難くあるな、それは」
「姉さん、人前ではしゃんとしてるから。レディの慎みがどうとか言って」
「ああ、確かに。言われてるのは主に衛宮のと蒔の字だが」
「ぐはっ!?」
誤魔化しているうちに痛いところを突かれた詩音は、胸を抑えるジュエスチャーをしながら体を大げさに仰け反らして、メディーック! メディーック! と冗談を口にする。その様子に、鐘は小さく笑いを浮かべる。
「そういうことをしてるから慎みが足りない、と言われるのだと思うのだがな。それはそうとイリヤは大事ないのか?」
「へ? あ、うん。一応、朝ごはんもちゃんと食べてたし。そう酷いわけじゃないから」
「ふむ。部活が終わってからでも見舞いに行こうか――良いだろうか、衛宮の?」
「うへ? 見舞い?」
妙なことになってきたぞ、と詩音は冷汗をひとつ。いや、イリヤの仮病がばれるとかそういう心配は、無い。隙を見て家に一本電話を入れてしまえば、病人を装って鐘を出迎えるこうらいはしてみせるだろう。いや、連絡をせずとも帰宅した詩音に鐘が付いてきたことを察した時点で演技にはいるかもしれない。だから、仮病がどうの、という心配はない。
問題は。
「詩音。巫山戯たこと言ってると怒るわよ? 中止? 中止って言った?」
うは、姉さんおかんむり。やー、無理もないか。時間かけて準備したのに帰ってきたらいきなり中止とか言われたら怒るね。うん、私だったら山ほど剣出して投げつけてるね。うん、姉さんが怒るのも無理はない。無理はないけどそんな極地で吹き荒れるブリザードみたいな冷たい視線で睨むのはやめてください。泣きそうになるから。
「あと、その男の人は何?」
「そう、そうなの姉さん。とりあえずこの人の治療! かなり出血してるみたいなのよ。一応、応急手当はしたけどこのままじゃあ死んじゃうわ」
「――その人を助けるために儀式を中断しろ、詩音はそういうわけね? 何処の馬の骨だか判らない赤の他人を助けるために、この寒い中埃っぽい土蔵で準備してた私の苦労を無にしようと、そういうわけね?」
ああ、姉さんの視線が体感温度で二〇度は下がった!? 怖っ! めっちゃ怖っ!! すいませんお願いですからそんな眼で睨まないでください。そんな視線だけで大量虐殺できるような眼で睨まれたらあなたの可愛い妹は思わず漏らしちゃいかねません――って、そんなこと考えてる場合じゃない。
「ごめん、姉さん! あとで何してもいいからとりあえずこの人の治療をお願い!」
どうやら、私の声がかなり切迫したものだと察してくれたらしく、おっそろしい眼をしてこちらを睨んでいた姉は、ふン、と小さく鼻を鳴らすとすたすた歩いて縁側から屋敷の中へ入っていった。
「何をぼうっと突っ立ってるの。早くその人を連れてきなさい。さっさとしないとほんとに死んじゃうわよ、その人」
「ごめん」
私が姉さんに甘いように、姉さんもまた私に甘い。もちろん、程度の差はあるけれど、それでも姉さんは私に甘い。その理由が判っている私は、そのことに砂を噛むような思いを抱きながら、詫びの言葉を口にして姉さんのあとに続く。黒のローファーを乱暴に脱ぎ捨て――ああ、今は慎みがどうのって言ってる場合じゃないのお願い睨まないで姉さん――、縁側から居間にあがる。と、忘れてた。
「姉さん、この人、女の人だから」
そう、パリっとしたスーツを見事に着こなしているから判らなかったのかも知れないが、私の腕の中で弱弱しい呼吸を繰り返すこの人は、紛れもなく女の人だった。男装の麗人、といったところだろうか。
「――詩音?」
あれこれと治療の準備をしていた姉さんの手がぴたり、と止まり、すげぇ良い笑顔でこちらを見ながら姉さんが尋ねてきた。うん、姉さん。姉さんの笑顔はとっても綺麗なんだけど今は怖いとしか思えない。
「なんでしょうかオネエサマ?」
「まさか、と思うけど、女の人だから放って置けなかった、なんてことはないわよねぇ?」
止まっていたのはほんの数寸。すぐに姉さんはあれこれと手を動かし始める。畳に寝かせた女の人から手早くジャケットとシャツを剥ぎ取る。切り取られた左腕の無残な姿が視界に飛び込む。無残、とは言ったが、その傷口は見事なものだった。こう、一気にばっさりいったとしか思えない傷は、加害者がなんの躊躇いもなくこの女の人に斬りかかった証左だろう。女の人に躊躇いもなく斬りかかるなんて、これをやった犯人はきっとロクデナシに違いない。それにしてもおっぱい大きいなぁ。着痩せするタイプか。
「はははは姉さん私をいったいなんだと思って――――うん、ごめんなさい」
乾いた笑いをあげて誤魔化そうとしたが、極上の笑顔で睨まれ、私はあっさり姉さんの言葉を認め謝罪。いや、ほら、だって切嗣も女の子には優しくって言ってたし。この際、私も女の子だっていうことはおいといて。
「まぁ、いいわ」
何処か諦めたような調子で姉さんは溜息を一つ。見事な手さばきで傷の処置をしていく。ここらへんは私で慣れたんだろうなぁ、などとちょっと思い出に浸ってみたり。や、私も手当てできないことはないけど、それでも姉さんには及ばない。多分、手伝おうとしたら、「邪魔」って言われる。だから、見てるだけ。
「詩音が女の子に甘いのはもうどうしようもないから」
「姉さん。その言い方だと私が女性関係ゆるゆるな駄目人間みたいに聞こえるの」
「大して間違ってないでしょうに」
ああん。
いや、まぁ、確かに女の子には甘いけどね。実際、この人が男だったら見捨てこそはしないけど適当な病院のなかに放り込んでいまごろは喚び出してるだろうし。だけどね、姉さん。それだけじゃないんだってば。
「姉さん、気付いてる?」
「勿論」
あ、やっぱり気付いてた。そりゃそうか。魔術師としては私よりもよっぽど上の姉さんが気付かないはずもない。十中八九、この女の人は魔術師だ。だからこそ、私はこの女の人を病院に任せたりせずに、屋敷までお持ち帰りしたのだ。この時期に魔術師、というのは、まぁ、参加者とは言い切れないが、可能性は大きい。
そうこうしてるうちに、女の人の傷口は処置も終わり、綺麗に包帯で巻かれていた。結構なお手前で。
「この時期に魔術師、ねぇ」
「
袖まくった、血で汚れた手をタオルで拭いながら一息ついた姉さんの漏らした言葉に、私は問いかけを一つ。その問いに、姉さんは無言で頷きを返してきた。まぁ、そう考えるのが妥当だよねぇ。
「それにしても」
急須に茶葉を放り、ポットからお湯を注ぎながら姉さんはにやにやと笑いながらこちらを見た。
「つまみ食いはしなかったみたいね?」
あー、そこか。そのことか。だって、ねぇ?
「姉さんがするな、って言ったから」
正直、あの状態で我慢するのはきつかったけど、それでも釘を刺された以上は、ね。何処か拗ねたような声になっていた私に、姉さんは少女に笑いかける猫のような笑みから、悪意の欠片もない綺麗な笑みに浮かべる表情を切り替えると、こちらの頭を撫でてきた。
「うん、良い子良い子」
「姉さん、子供扱いは、ちょっと」
「詩音。そんな嬉しそうな顔で言っても説得力ないわよ?」
うわっ。
「あと、忘れてるかも知れないけど、儀式の中断と治療の対価に詩音のこと好きにさせてもらうからね」
うひっ!?
そう、イリヤが学校に顔を出していないのは、昨日、詩音がお持ち帰りした女の人の様子を見るためだった。いや、どうやら峠は越したようだから、付きっきりで世話をする必要はないのだが、未だに目を覚まさないあの女の人が起きたときに家を空けておくのは不味かろうということで、イリヤが屋敷に残ったのだ。
敵かも知れない魔術師と姉を二人きりにしてしまうことに詩音は少しばかり不安を覚えたが、並みの魔術師など足元にも及ばない実力をイリヤは持っているし、そんなイリヤを半死半生といった按配の相手がどうこう出来るとも思えないので、詩音はイリヤを残して登校したのだた。
もっとも、詩音は自分の持ち込んだ面倒でイリヤが学校を休むことに難色を示したが、イリヤに押し切られる形で渋々登校したのだった。詩音の調子が何時にも増してアレな具合なのは、そうした心因的なものからだった。
「あー、見舞い。見舞いね」
さて、どうしたもんか、と詩音は級友の申し出に答えに窮する。姉の容態を案じ、見舞ってくれるという鐘の言葉は嬉しい。おそらく、姉が聞いても自分と同じような気持ちになるだろう。姉妹は、冬木を訪れて初めて得ることの出来た日常と、その具現ともいっていい友人たちを世界に二つとない宝石のように大切に思っていた。
だが、その大切なものを、こちら側の世界に染まりつつある衛宮邸に招いてもいいものか。下手をすればこれから始まるだろう莫迦と阿呆と理不尽が徒党を組んでラインダンスを踊るようなイベントに巻き込んでしまう可能性だってある。それは嫌だ。
でも、友人の心遣いを無碍にするのもはばかられる。
そんなワケでどうしたものか、と悩んでいると。
「いよぉ〜う、二人とも」
「おはようございます」
噴射拳の達人のような挨拶と、どこか仔犬を連想させるような調子の挨拶が飛んできた。陸上部三羽烏の蒔寺楓と、三枝由紀香だった。
「おりょ? 今日はイリ坊はどうした?」
イノシシの仔のような渾名でイリヤのことを指した楓が、おっさんのような動作で自分の椅子に腰掛けた。イリヤ曰く、
『カエデにはレディとしての慎みが致命的に不足している』
とのことだが、こうした仕草を目にすると姉のあまりといえばあまりな言葉にも納得してしまう。とはいえ、一見すると雑な感じのする楓だが、詩音のみたところ、そんな楓も、多分に女の子らしいところを持っている。逆に、たまに見せるそうした女の子らしいところが、普段の姿と必要以上にギャップを感じさせて楓を可愛らしく見せることさえある。
ちなみに、由紀香に対するイリヤの評価は、
『わんこ』
だそうだ。これに関しては、詩音だけでなく鐘や楓、下手をするとクラス一同で納得している。当の由紀香は、そのことを言われると不思議そうに首をかしげるのだが、そうした仕草も由紀香を可愛らしい小型犬のように見せる一因となっている。許されるならばお持ち帰りして家で首輪をつけて飼いたくなってしまいそうになる衝動を押さえ込むのに詩音は日頃から多大な労力を払っていた。
「あー、姉さんだったら体調不良」
「え、そうなんですか?」
楓の問いに答えた詩音の言葉に、由紀香がわかりやすいほどの不安を顔に浮かべる。そんな由紀香に苦笑を浮かべながら、詩音は口を開いた。内心では三枝さん可愛いなぁ、などと、何処かトンチキなことを考えている。
「まぁ、ちょっとした風邪みたいなもんだと思うから。そう心配しなくてもいいよ」
「そこで、部活が終わったあとで衛宮の家に見舞いに行こうと思うのだが」
そう来たか。
もしかしたら有耶無耶にできるんじゃないかなー? などと考えていた詩音は思わず舌打ちしそうになるのをぐっと堪えた。そんなことを言ったら、
「あ、そうですね。イリヤさん、寂しいでしょうから。私もお見舞いにいきます」
ほら。三枝さんの性格からしてこう言うに決まってるのだ。詩音は溜息をつきたくなった。そして、ちらりと由紀香の顔を見ると、
お見舞いにいきます。
お見舞いにいかせてください。
お見舞いにいったら駄目ですか?
仔犬のようなつぶらな瞳で、こちらに無言の(そして無意識の)プレッシャーを与えてくる。詩音は、そのプレッシャーになんとか抗しようとし、
(――――駄目だ)
絶望のあまり、思わず天を仰いだ。くたびれた教室の天井に浮かぶ染みが視界に飛び込んでくる。あんな目をされたら駄目っていえない。詩音は思った。私には、そんな酷いことは言えない。
切嗣の半ば洗脳じみた『女の子には優しく』という教育に加え、仔犬アイの魔眼じみた効力によって、詩音は白旗をあげざるをえなかった。
「あー、うん。姉さんも喜ぶと思うから、是非」
「由紀香は酷く残念がっていたな」
夕暮れの坂道を歩く鐘は、なんとはなしに自分の傍らを歩く眼鏡仲間のクラスメイトにそう語りかけた。結局、由紀香は見舞いに来れなかった。家の用事があることを思い出して、心底残念そうな顔で、衛宮邸に向かえぬと詫びたのだった。ちなみに、楓は最初から用事があったらしく、不参加を表明していた。
「うーん、そーだねー」
「衛宮の」なんか疲れきった様子の詩音に、鐘は怪訝そうな顔をむけた。「どうも覇気が感じられぬのは私の気のせいか?」
「あーいや、うん、大丈夫」
友人の問いに、詩音は苦笑を浮かべて答えた。ぶっちゃけた話、詩音は由紀香が来ないと判ってめちゃめちゃ脱力していた。この事態を招いた当の本人が土壇場になって不参加になったのだ。気が抜けるのも仕方ないといえる。とはいえ、こうして見舞いに行こうとしてくれている友人にだらけた姿を見せるのもなんだ、と詩音は気をとりなおして背筋を伸ばす。
「あー、そういえばさ」
気を入れるのと気分転換をかねて、詩音は常々疑問に思っていたことを口にした。
「なんだ? 衛宮の」
「それ。氷室さん、私のこと『衛宮の』って言うでしょう? どうして?」
問われた鐘は、足を止めて、ふむ、と腕を組む。
「どうして、と言われてもな。衛宮のは衛宮のだろう?」
「や、ほら、姉さんはちゃんとイリヤって呼んでるじゃない」
たまに小悪魔呼ばわりもしてるけど、と詩音。
「姉さんだけ名前で呼んで、私が、『衛宮の』なのはどうして?」
「ふむ。有体に言えば、イリヤは『衛宮の』という呼称が似合わないからであろうな。純和風な衛宮のと違い、イリヤにそう呼びかけるのはどうにもはばかられてならない。加えて言えば、姉妹揃って『衛宮の』では紛らわしいだろう」
返って来た答えに、詩音はがくりと肩を落とした。確かに、姉と違い詩音の顔の造りは純和風である。色素の抜け落ちた真っ白な髪を別とすれば、パーフェクトなまでに完全無欠に日本人だ。造り自体はけして悪くはないのだが。
加えて、体の造りも純和風。具体的には腰の高さとか、足の長さとか。背丈自体はそう変わらないイリヤと二人並んでみるとそれが良く判る。すこしばかりコンプレックスになっていることは詩音の五十七ある秘密の一つ。姉より胸が薄いことを気にしているのも秘密。
「じゅ、純和風って……」
思い至ることが山ほどある詩音は、鐘の返した明瞭な答えに大ダメージ。その場に轟沈した。がくり、とその場に膝をついてたそがれる級友の姿に、鐘は少しばかり困惑したような表情を浮かべる。
「む、衛宮の。どうした。こんなところで膝をついて? 通行人が微妙なものでも見るからのような視線を私たちに向けているので立ち上がってくれるととても助かるのだが」
思いやりの欠片もない有難い言葉に、詩音は心の中で滝のような涙を流しながら立ち上がった。思考をネガティブなそれから切り替えて会話を再開させる。
「や、それでも姉さんだけ名前で呼んで私だけ名字ってのは不公平だわ」
「――――そういうものか?」
ふむ、と残照を眼鏡で反射させながら鐘は小首を傾げた。『衛宮の』という呼び方は、彼女なりの親愛の情を込めての呼び方だったのだが、どうにもこの新しい友人はお気に召さないらしい。なるほど、それならば仕方ない、と鐘は頷きを一つ。
「それならば、今日、いまこの時から名前で呼ぶことにしよう。詩音、これでいいかな?」
「おっけー」
満足そうに頷く詩音に、鐘はうむ、ともう一つ頷き。と、頷いて、わずかに眉をしかめた。
「思えば、イリヤは私のことを呼び捨てにしているが、詩音は『氷室さん』と呼ぶな?」
「うん? それがどうかした?」
「いや、何。私にだけ名前で呼ばせておいて、というのはどうにも不公平な気がしてね。詩音ふうに言うならば、だが」
詩音にしてみれば、さして付き合いが長いわけではないから、名字さん付けで呼ぶのは当然のことだと思っていた。親しき仲にも礼儀あり、と昔のひとも言っている。もっとも、身近に親しい間柄でなくても一般的な礼儀に欠ける人間がいるのだが。誰とは言わないが冬木の虎だ。まぁ、そうした反面教師がいるからこそ、ことさらそういうことに気を使っているのだが――
「うーん、私も名前で呼んだほうがいいかな?」
「そのほうが公平だとは思う」
もってまわった言い方するなぁ。詩音は鐘の返してきた言葉に苦笑を浮かべた。
「おっけー、じゃあ、今日から氷室さんのこと鐘って呼ぶね」
「うむ」
と、そんなやりとりをしているうちに周囲の風景は和風な佇まいの家屋が並ぶものになっていった。しばらく歩くと、切嗣が残した屋敷に着く。
「ふむ、結構大きいな」
いい感じに草臥れて風情のある門を見た鐘が、その雰囲気に感じ入ったような声で言った。それに、詩音は苦笑して言う。
「無駄に広いだけよ。切嗣が死んだときも相続税とかで大変だったし」
もっとも、大変だったのはそこら辺の手続きをしてくれた藤村の爺さんだったのだが。何気ない口調で言った詩音だったが、鐘はその言葉を聞いて僅かに表情をくもらせた。
「衛宮の――ではない。詩音、すまない」
「は?」
唐突に口にされた詫びの言葉に、詩音はきょとんとした顔。が、鐘はそれに構うことなく詫びの言葉の続きを口にする。
「嫌なことを思い出させてしまったようだ。この通りだ、許してほしい」
言って、深々と頭を下げる鐘に、詩音ははてなんのことやら、としばし首を傾げたが、すぐに切嗣が死んで云々のことだろうと思い至り、苦笑する。深々と頭を下げたままの鐘に頭を上げさせて言う。
「気にしなくていいのに。もうずっと前のことだから」
「だが――」
真面目だねぇ。なおも言い募ろうとする鐘の様子に、詩音は苦笑を深くして言う。
「まぁ、たしかに切嗣が逝っちゃってしばらくは辛かったけどね。だけど、それで思い出したくないってのは切嗣が可哀想じゃない。死んじゃったあとで、誰かに思い出してもらわないと、人は何処にも残れないんだから。そういうことだから、むしろ切嗣を思い出させてくれた鐘には有難うって言いたいぐらい」
苦笑から、何かを懐かしむ表情。そして最後に笑顔と浮かべている表情を変えながら言う詩音に、鐘はしばし言葉を失う。だが、すぐに淡い笑顔を浮かべて、なるほど、と小さく呟いた。
「詩音は強いのだな」
「まさか。私はすっごいヘタレよ?」
言いながら笑って、詩音は門をくぐり玄関へと鐘を先導する。途中に見える庭先は、日本を離れて久しいというのに荒れた様子はない。詩音たちが帰ってきてから多少手を入れた、ということもあるが、それ以上に詩音がいない間にこの屋敷の手入れをしてくれていた藤村大河――というより彼女の意を組んだ藤村組の者――のおかげだ。
「ただいまー」
がらがらと引き戸を開きながら帰宅の挨拶を口にした詩音と、それに続く鐘が学校指定のローファーを脱いで玄関からあがっていると、妹の帰宅を察したイリヤが姿を見せ、
「――――」
「――――」
詩音と鐘は、二人して言葉を失った。
二人を迎え出たイリヤは、パジャマにどてら、口元にマスク、額に吸熱シートという風邪ひきの人間、その典型的な姿だった。詩音は、確かに今日は鐘が見舞いに来ると電話で伝えたけれど、なにもそこまで偽装せんでも、と呆れていたし、鐘は鐘で、学校でイリヤが見せている、まさしく『小さな淑女(小さな、という点を口にするとイリヤはぷんすか怒る)』といった様子の普段の姿や立居振舞からかけ離れた風邪ひきルックに呆然としていた。
「おかえり、詩音。あと、いらっしゃい、カネ。お見舞いにきてくれて嬉しいわ」
こほこほ、と(詩音からすれば)わざとらしい咳をしながら言うイリヤに、二人の呪縛は解除された。
「あー、ただいま姉さん」
「うむ。お邪魔するぞイリヤ。大事ないか?」
言って、二人は玄関に脱いだ靴を揃える。イリヤ視点からするとスカートに包まれた年頃の娘さんのおしりがふりふりしてるので非常に目の正月であり眼福眼福。もちろん、そんなことはおくびにも出さず、イリヤは鐘に来客用のスリッパを勧めると居間のほうに引っ込んでいく。
「ふむ、詩音。私はいまとてつもない衝撃を覚えている」
居間に消えたイリヤを見届けて小さく言う鐘に、詩音はばつが悪そうに苦く笑った。
「まぁ、姉さんも何時も何時もきちっとしてるわけじゃないから」
「当然といえば当然だな。誰だって自分のテリトリーの中ではリラックスしているだろう」言って、鐘はそれでも、と言葉を続ける。「イリヤはどんなときでも淑女然としていると思っていた。まだまだ甘いな、私も」
何が甘いんだろう、と思いつつ、詩音はイリヤがああした姿で自分たちの目の前に現れた理由にあたりをつけていた。姉さん、鐘のことからかってたわね。詩音は、イリヤを前にして固まるこちらの様子を見る姉の双眸に、愉しげな光が浮かんでいたことを見逃さなかった。だから小悪魔って呼ばれるのよ、姉さん。呼んでいるのは主に鐘と楓だが。
それから、見舞いにと鐘が買ってきた江戸前屋のドラ焼きをお茶請けに、学校でのことなどを話しながらお茶をしていると、いい時間になっていた。愉しい時間というものは何時だって過ぎ去る時間が早い。そして、三人がそれに気付くのは飢えた虎の来襲によってだった。虎が衛宮邸を訪れるのは朝食前と、夕食前の一日二回。そして、この場合は後者であり、時刻がすでに夕餉の時間だということを意味していた。
冬木の虎は、任侠をもって生きる家系に生まれたからか、はたまた生まれ持った性質か、義理と人情に厚い。そして、この義理人情こそ人生紙風船な薄ら寒い渡世にあってなによりも尊ぶべきものだと信じて疑わない野生動物は、自分の妹分であるイリヤを見舞った教え子を礼とばかりに衛宮家の夕餉に招いた。もっとも、料理を作るのは詩音なのだが。
「いや、詩音の料理が旨いというのは持参してくる弁当で思い知らされていたが、これは本当に大したものだな」
旬を迎えた牡蠣のフライに舌鼓を打ちながら、鐘は詩音の料理を絶賛した。当初、鐘は家で食べるからいいと虎の申し出を断ったのだが、そこはそれ傍若無人をもって知られる冬木の虎に逆らえるわけもなく、また、鐘の返答を聞く前に調理を始めた詩音の立つ台所から漂ってくる食欲を刺激してやまない香りに膝を屈して食卓を囲んでいた。
「でしょう? 氷室さんも詩音ちゃんの料理の良さが判るなんて中々見所があるわね」
「いや、藤村先生。これは、この料理の良さが判らないのはよほどの味音痴だけだろう」
「褒めて貰えるのはとても嬉しいんだけど、藤ねえがえらそうに胸をはってる理由が判らない」
もちろん、そんな台詞に耳を貸す藤村大河ではない。馬耳東風、馬の耳に念仏という表現がしっくりくる様子で、牡蠣のクラムチャウダーを胃に流し込んでいる。作り手からすると、もっと味わって食え、という気持ちと、見事な喰いっぷりに天晴れといいたくなる気持ちの半々で実に微妙な心境である。
ちなみに、冬木の虎が大食漢なのや、イリヤが見かけによらず結構食べる(むろん、程度問題ではあるが)ことは前述したが、鐘も良く食べる。虎のようにがっついているわけではないが、礼儀正しく、上質の料理をゆっくりと噛み締めるように食す鐘の消費する食料はかなりの量だった。まぁ、陸上部で体を動かしているからだと思えば別段不思議ではない。
「しかし本当に詩音の作った料理は美味しいな」
牡蠣の旨みがたっぷりと滲み出ているチャウダーを舌の上で味わって、鐘は詩音への賞賛を再度口にした。
「でしょう? 詩音の作った料理はほんとうに美味しいんだから」
「や、だからそこで姉さんが胸をはる理由が判らない」
ご飯の消費量は、虎:五杯、鐘:三杯、イリヤ:二杯、詩音:一杯というものだった。虎、食べすぎ。これで太らないのだから、あの野生動物はよほど燃費が悪いに違いない。詩音はそう思った。
食後の、一服――詩音が手ずから入れた玉露を愉しんだあと、虎と友人は衛宮邸をあとにした。遅くなったから送る、という詩音の申し出を、しかし鐘は笑って断った。姉についていてやれ、と。姉のことをやたらかまいたがる詩音のことを慮っての言葉だった。
近頃は物騒だから、そう言って躊躇う詩音に助け舟を出したのは大河だった。私が氷室さんを送ってくから、詩音はちゃんはイリヤちゃんについてなさい。そういうと、虎は鐘を伴って衛宮邸をあとにした。
まぁ、あの野生動物がついていれば滅多なことはあるまい。
詩音はそう自分を納得させて玄関を居間へと戻る。戻りながら、果たして虎の言葉は教え子を心配する教師としてのものか、はたまた衛宮家のエンゲル係数をやたらと上昇させていることにたいする償いか、と考え、
(前者ね)
と断定した。意外なことに、あのちゃらんぽらんに見える虎はあれでも自分が教師だという認識をもっているらしい。その割には自分が担任をつとめるクラスのHRで随分とはっちゃけた真似をしているという風評を耳にするが、それでも藤村大河は自分の教え子の安否を気にかける聖職者の端くれなのだ。
まぁ、かえすところ衛宮家の家計など気にもかけないということなのだがそれはそれ。
居間に戻ると、姉が風邪ひきルックから普段どおりの装いに着替えて熱いお茶を楽しんでいた。やはり、鐘をからかうためにあの格好でいたらしい。そのことに詩音は小さく溜息をつくと、姉の隣に腰を下ろした。
「詩音、お茶は?」
「貰うわ」
答えて詩音は、テーブルの上の盆に盛られている煎餅に手を伸ばした。そんな詩音を尻目に、イリヤは詩音用の湯飲みにお茶を淹れると、彼女の前に置く。そして、
「で、貴女もお茶にする? それともコーヒー?」
「――気付かれていたか」
イリヤの言葉に、彼女の背後の襖から声が返って来た。と、同時に襖が開く。そこには、包帯で巻かれた上半身にスーツのジャケットをひっかけた隻腕の女性が立っていた。
「で、お茶? それともコーヒーにする魔術師さん?」
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