新しい姓と、詩音という名になった私には、頻繁に父親になった切嗣の布団に潜り込む癖がついていた。エディプスコンプレックスの発露――というわけではなかったと思う。あれは、愛情を求めて云々、というよりも単純に恐怖から逃れるために誰かの存在を求めての行動だったのだろう。
幸いなことに、切嗣はペドフェリアという病んだ性的嗜好の持ち主ではなかったが、それでも、つい先日まで何のかかわりもなかった赤の他人である女の子が、(切嗣的視点では)自分を頼ってくるのが嬉しかったらしく、私を布団から追い出すようなことはしなかった。もっとも、『女の子には優しくしなきゃならない』と日頃から吹聴している切嗣が親子云々を抜きにしても私を布団から追い払うようなことはしないだろうが。
ある日、何気ない調子で切嗣が私に自分の毛布に潜り込んでくる理由を尋ねてきた。おそらく、私が父親云々という理由から切嗣の布団に潜り込んでいるのではないと悟ったのだろう。もしかすると、答えを聞いて気を悪くするのではないか、と幼心に思ったが、それでも私は切嗣にその理由を話していた。自分を引き取り、実の家族以上に私に優しくしてくれる切嗣に本当のことを言わなくては、彼を裏切っているような気がしたのだ。
理由を聞いた切嗣が浮かべた表情は、おそらく絶望という表現がしっくりくるものだった――私はそう記憶しているし、のちに切嗣が私に言い聞かせた言葉からも、それが間違いではないと確信している。
「珍しい」
寝惚けまなこの詩音の隣を歩くイリヤが、小さく呟いた。視線は、校門の先へと向けられている。周りには、まだ早い時間にも関わらず登校してくる生徒たちがちらほらと見える。グラウンドのほうを見たならば、各種運動部の部員たちが朝練に励んでいる。
「お、鐘だ。ふぅん、綺麗なフォームで飛ぶんだねぇ」「何処見てるの詩音」
「鐘のほう」
答えた詩音に、イリヤは軽く溜息をついて、
「っっ!?」
詩音の脛を蹴り飛ばした。ちなみに、イリヤが履いている学校指定のローファー、自衛用と称して爪先に鉄板が仕込んであるなかなかにデンジャラスな代物であり、これで脛を蹴られるとかなり痛い。
改造を施したのは衛宮の家と懇意にしている藤村組と付き合いのある靴屋だった。藤村の大親分と、その大親分と同じような思考パターンをもつ靴屋の主人は、イリヤの要望を面白がり、見事彼女の眼鏡にかなう一品をあつらえてみせた。
仕込んであるのは、頑強さと靴としての軽やかさを両立させるためにわざわざ拵えた鍛造チタンの板であり、酷く堅い。もちろん、剥き出しではなくチタン製の板の上には靴の皮が張られているのだが、牛皮をなめして作られた皮一枚ではその威力を低減させるには至らない。破壊力は折り紙附きである。
この靴の名を借りた凶器をイリヤは自衛用と称しているが、その実対詩音折檻用の一品だというのは公然の秘密である。
「詩音、貴女ほんとに朝は駄目駄目ね。今ので目は醒めたかしら?」
「無理矢理醒まされましたというか死ぬほど痛いです姉さん姉さん死ぬほど痛いです」
涙目で言う詩音をイリヤは綺麗にスルー。代わりに、小声で自分の隣で目尻に涙を浮かべている詩音に囁く。
「貴女の同類である冬木のセカンドオーナーがこんな時間に登校してるわ。何かあったのかしら?」
言われた詩音は、それとなく校門の様子を盗み見る。なるほど確かにあれに見えるツインテールは冬木のセカンドオーナーである遠坂凛女史だった。クラスメイトの評によれば、遠坂女子の登校時間は遅刻ギリギリとまではいかないが、それなりに遅い方であるらしい。衛宮姉妹もそれは確認している。
加えて、イリヤの見立てでは遠坂女史は詩音の同類――つまりは朝に弱い類の人種であるらしい。厳密には同類ではないのだが、イリヤの見立てが正しい場合、その朝に弱いセカンドオーナー殿がこんな時間に登校しているのは中々に珍しいことだといえる。
「何か特別なことでもあったのかしら」
呟くイリヤに、冬木の今の時節、魔術師であるセカンドオーナー殿の特別なことと言えば、と詩音が考え、
「喚んだのかな?」
そう漏らすが、イリヤは小さく首を横に振った。
「喚んだ直後の魔術師っていうのは、ごっそり魔力を持っていかれるらしいから、ただでさえ朝に弱いセカンドオーナーがこんな時間に登校するとは思えない。それよりも、これからやることのために気合を入れて朝が早くなった、と考えるのが妥当ね」
そうイリヤは推論してみせた。もっとも、その推論は前半当たりで後半は外れていた。件の遠坂女史がこのような時間に校門において穂群原学園三大女傑の一人に数えられる弓道部主将と会話をしているのは、たしかにこれからやることにその遠因があるのだが、イリヤが推察したように『気合を入れて』朝が早くなったのではない。当人の主観では、普段より三〇分ほど遅く起きてみたら実は時計が一時間進んでいたせいで結果として何時もより早く登校してしまったのであるが、いくら魔術師としての力量はトップクラスとはいえ神ならぬ身のイリヤにそれが判るはずもない。
が、イリヤや詩音が参加する腹積もりである戯けたイベントに向けて彼女たちがライヴァルになるであろう冬木のセカンドオーナーに警戒を強めたのは当然の反応であり、我知らずライヴァルに警戒を強いらせた遠坂女史は無意識のうちにうっかりしていたということになる。うっかり。ある意味、これからのイベントでその名を知らしめるうっかり伝説の始まりといえなくもない。
と、件の遠坂女史と弓道部主将が校門から離れていくことに気付いた衛宮姉妹は、自分たちが阿呆のようにその場に突っ立っていることに気付き、いそいそと学舎へと向かった。早い時間ゆえに周りに人影が少なかったのはもちろん幸いだった。
何時もどおり、彼女たちが一番乗りに足を踏み入れた穂群原学園2年A組に、彼女たち以外の人影はない。これで誰か先にいたなら一番乗りではないから当然といえば当然だが。夜の間に充分冷やされ、朝の陽光をもってしてもいまだ清冽な空気を保っている無人の教室のもつ雰囲気を、イリヤはことさら好んでいた。それは、これから賑やかになる一日の始まり、その象徴であると同時に、彼女が日本に来て初めて手に入れた穏やかな日常の象徴でもあるからだ。ゆえに、イリヤはとりたてて用もないのに朝早くに登校する。
とはいえ、そんな姉の心理的贅沢につき合わされている詩音はというと、
「ふぁああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁ〜」
盛大に欠伸をかましていたりする。ゆるゆるだ。緩みきっている。そんな妹のだらしない様子をちらりと一瞥すると、イリヤは自分の机に学生鞄を置き、今日使うテキストとノートを机の中に収める。イリヤは置き勉という習慣をもたないたちの人間であった。
同じように自分の席――イリヤの右隣――に腰掛け、その次の瞬間には机に突っ伏す詩音に、イリヤは溜息をひとつ。流石に、自分の贅沢につき合わせているので、この時点での小言はない。どうにも慎みにかける所作も見逃す。姉は寛容だった。
ただし、これが教室に生徒たちが揃い始める段になってなお同じような態度をとっていると、イリヤは寛容さを母親の胎内に置き忘れてきたような態度を示す。まず最初は地獄の悪鬼ですら竦み上がるような極上の笑顔での警告。大抵の場合はこれで詩音はそれまでのだらけっぷりが嘘のようにしゃんとする。
そして、警告を発してなお詩音が態度をあらためない場合、誰から習ったのか拳を一本拳に握り、世界を獲れるようなフックをリバーに叩き込む。攻撃の際には一切の警告はない。もっとも、その破壊力抜群の一撃が放たれたのは、衛宮姉妹が年明けとともに穂群原学園に編入してきてから一回だけである。某格闘漫画のキャラのように、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!?」
と人前で悶絶するのは流石の詩音も嫌だったらしい。人前でなくても嫌だろうが。
その悪魔の左フックを放つイリヤは、今は妹の堕落した姿を見逃している。姉妹といえど、朝の雰囲気の楽しみ方はそれぞれであり、それに容喙するような真似をイリヤはけして行わない。彼女は寛容なのだ。
そんなHR前の、生徒たちが教室に現れるまでの貴重な妹(机の上でだらけていることは意図的に無視)との一時は、だが、今日に限って予想より早く打ち破られた。彼女にとって固有結界に匹敵する神聖な空間に現れた闖入者は、意外な人物だった。いや、あるいは予想してしかるべきだったのかも知れない。
闖入者の名は、遠坂凛。ツインテールが特徴的な冬木のセカンドオーナーその人である。
おそらく、教室には誰もいないと思っていたのだろう。がらがらと引き戸を開けて教室に足を踏み入れた凛の顔には、微かな驚きがあった。が、そこは学園きっての才女の猫を被り続けてきた剛の者。すぐさま余所行きの笑顔を浮かべ、先に席についていた衛宮姉妹に挨拶をする。
「おはようございます、――衛宮さん」あまり接点がないせいだろう、衛宮の姓を口にするのが少し遅れた。「ずいぶんと早いんですね?」
未来の敵対者と不用意に接触することをさけていた上、登校時間の異なるせいで滅多に話をしたことのないイリヤ(妹は相変わらずだらけている。下手をしたら凛の存在に気付いていない)は、淑女然とした挨拶をよこしてきた凛の様子に、気付かれぬ程度に眉をあげたあと、同じような態度で挨拶を返す。レディとしての振る舞いであればイリヤは凛に何を劣ることの無い猛者である。
「ええ、おはようございます。遠坂さん。今日は珍しく早いんですね?」
軽くジャブを放って相手の出方を窺うイリヤ。可能であれば相手のイベントに関する現状を探ろうという腹だ。こうした点に置いて、イリヤはその見た目からは判断できないような力量を発揮する。加えて言うなら、凛にとってイリヤは『単なる転校生』であり(もちろん、イベントの参加者か、と当初は訝しんだが、イリヤにしろ詩音にしろそうしたそぶりは露ほども見せなかった為にすぐに意識から外した)、まったくのノーマークであった。イリヤは圧倒的なイニシアチブを握っていた。
「ええ、今日は少し早起きしてしまったもので」
「ああ、そうなんですか。じゃあ、こうした教室の雰囲気は初めてですか? 悪いものではないでしょう」
どうして早起きしたのかしらね、という本音は欠片も見せず、イリヤはまるでとっておきの自慢の宝物を披露するような口ぶりで教室をさっと眺めた。ある意味、これはこれで本音でもある。
「そうですね、静かで、放課後の誰もいない教室とは違った雰囲気。ええ、けして悪くないですね。これなら早起きした甲斐があったかも」
無論、凛はイリヤに合わせて言っただけだが、それでも、それなりに朝の教室の雰囲気に感じ入っている。余所行きの親しげな口調のまま、凛は言葉を続ける。
「衛宮さんは何時もこんな早くに?」
「ええ」イリヤは頷く。「誰もいない教室の、まるで王宮のような雰囲気が好きで」
笑みを浮かべたままイリヤはそう言い、ついで自分のとなりで無様な様子を晒している妹を見て苦笑する。
「もっとも、妹はそうでもないんですけどね」
「みたいですね」
イリヤの言葉に、凛は付き合うようにして苦笑を浮かべる。話の種にされた詩音は相変わらずの様子だった。そうして、凛は自分が鞄を持ったままであることに気付き、自分の席に向かうと、そこで学業の準備を整えた。何故か、言い知れぬ疲労感を憶えている。やはり、慣れない早起きのせいだろうか、と思う凛は、流石にそれがイリヤとの(自分はまったく自覚がない)イベントの前哨戦によるものだとは思いもしなかった。
詩音ほどではないが、普段より少しばかり気を緩めて軽く溜息をつく。席が離れているために、イリヤとの会話を続ける気にはならなかった。あるいは、無意識のうちにイリヤを警戒したのかもしれない。であるならば、流石は日本有数の霊脈、そのセカンドオーナーといったところだろう。
イリヤもイリヤで、セカンドオーナーとの会話でたいした情報を得ることが出来なかったことに忸怩たる思いを抱いていたが、あまり探りを入れすぎて下手に警戒されるよりはと考え、凛との会話を続けるつもりはなかった。
ある程度のルールのある戦い――自分以外の周囲の凡てが殲滅すべき敵、などといった特殊な事例を除き――において、自分が敵ではない、と思われていることはどんな武器よりも強力なアドバンテージを相手に対して発揮できる。イリヤはその貴重なアドバンテージを無駄に捨て去るような真似をするつもりは毛頭なかった。
しばらく、誰も口を開かない奇妙に重苦しい時間が流れ、やがてぽつりぽつりと生徒たちが登校してくる。初めは、原因不明の奇妙な雰囲気に入室する生徒たちもいたが、それも登校してくる生徒の数が増すにつれ霧散と消えてなくなり、やがて気にするものもいなくなった。
「いよぉ〜う――って、うわっ!? 遠坂がこんな時間にっ!?」
杖をついたグラサンの指導者のような挨拶を口にしかけた蒔寺楓は、視界に、自分の席でつんとすました顔を浮かべている凛の姿を認めて心底驚いた顔を浮かべた。
「あら、随分とご挨拶ですね蒔寺さん」
向けられた対象以外の者が見たなら、思わず、ほぅ、と溜息をつきたくなるような類の笑みを浮かべて随分なことを言ってくれたクラスメイトに凛は挨拶代わりの言葉をかけた。無論、その笑みの対象となった楓は美しい笑みに溜息をつくどころではない。背筋に盛大な悪寒を感じて身をぶるりと震わせる。
「事実だろ?」
それでも気丈にそう言ってのけた楓は褒められてしかるべきだろう。とはいえ、凛の被った猫、その本体との対峙は異様に消耗するため、彼女はそれ以上会話を続けようとはせずに自分の席へといそいそと向かう。戦術的、あるいは戦略的撤退は敗走ではない。手持ちの戦力で敵わないと判断した相手に向かっていくのは愚者の蛮行であって勇気の発露ではない。無論、時と場合にもよるが。楓は賢明であった。
楓が席についた頃、陸上部三羽烏の残りの構成員も教室に入ってきた。眼鏡がその知的な印象を与えてやまない氷室鐘と、ほわほわほにゃほにゃとした雰囲気が仔犬のような印象をあたえる三枝由紀香だ。とはいえ、この二人は楓のようにこの時間にいるはずのないクラスメイトには気付かなかった。と、いうよりも、先に昨日欠席していた年が明けてから親しくなった同性の友人の姿に気をとられたというべきだろう。
「ふむ、体のほうはもういいのか? イリヤ」
「おはようございますイリヤさん。風邪、大丈夫ですか?」
言いながらそれぞれ自分の席――イリヤに近い席――につくクラスメイトに、イリヤは淡い笑みを浮かべる。
「姉さんはしぶといから――がっ!?」
「おはよう。カネ、ユキカ。ええ、一日休ませてもらったら随分と楽になったわ。心配かけてごめんなさい」
失礼なことを言ってのけた妹の口を、目にも止まらぬショートフックで黙らせたイリヤは、こちらの身を案じてくれるかけがえのない友人にちょこんと頭をさげて礼と挨拶を口にした。ショートフック以外は何処に出しても何を恥じることのない淑女っぷりだ。
「――――おはよう、三枝さん。鐘。昨日はお見舞いありがとね」
苦悶の表情をなんとか笑みに変えて、詩音は挨拶。その努力と、イリヤの電光石火の早業のおかげで由紀香は、ほにゃり、と笑みを返してきた。鐘はなんとなくイリヤの所業を察していたようだが、あえて触れずに詩音に言った。
「なに、礼を言うのはこちらのほうだろう。あれほど見事な夕餉を馳走になったのだ。いや、昨日は久しぶりに旨いものを喰った」
「ん? 鐘は昨日衛宮んちで飯食ったのか?」
「ええ、見舞いに来てもらってお喋りしていたらいい時間になったから、折角、ということで」
「アレは実に見事な料理だったな。牡蠣フライは、ひと噛みすれば衣の内側から牡蠣の肉汁がぷつぷつと口の中に弾け、舌の上で踊り、クラムチャウダーは牡蠣の旨みと野菜が見事に調和したハーモニーを生み出し――」
「そんなに凄いんですか?」
「そんな褒められたもんでもないよーな気がするけどねぇ。作った本人としちゃあ」いまだ微かに痛むわき腹をさすりながら、詩音は苦笑しながら言った。「食材が良かったからね、今が旬だし。牡蠣って」
謙遜でもなんでもなく、詩音はそう思っているのだが、その料理を思うさま堪能した記憶も新しい鐘は、眉をひそめて詩音に言う。
「詩音、キミは自分の価値を不当に貶めているぞ? 食材が良かったから、と言うが、良い食材を使ったからといって必ずしも旨い料理を作れるわけではなかろう。少なくても私には無理だ。加えて言うなら、そこいらの洋食屋ではあれだけのものを作るのは適わないだろう。出すところに出せば十分に金が取れる代物だったぞ。まぁ、私はとりたててグルメというわけではないから信憑性にはいまいち欠けるが」
「ふわぁ〜、衛宮さん凄いんですねぇ」
至極真面目な表情で言ってのける鐘と、その言葉になにやら感銘を受けている由紀香に、詩音はこそばゆいような気持ちになって、ぽりぽりと頭を掻く。
「褒めすぎだってば」
「素直に有難うって言っておきなさい」
友人の賛辞に、やや顔を赤らめて照れている妹に、イリヤはくすりと笑ってそう言った。姉としては、妹の料理が褒められるのは悪い気はしない。ましてや、それが事実であるならば尚更だ。色々と問題はあるが、イリヤにとって詩音はかけがえのない大事な妹なのだ。
「つーかそんな旨いもんを鐘だけ食べたんかい。ずるいぞ」
「いや、ずるいもなにも」ジト目でこちらを見る楓に、鐘はやや呆れたような視線を返す。「蒔の字は昨日来なかったのだから仕方あるまい」
もっともな意見だ。だが、楓はそう言われても収まりがつかない。
「くそう悔しいぞ? 私だって詩音の作ったあつあつの牡蠣フライが食べたい。よし、判った! 今日は私も見舞いに行って牡蠣フライ食べてやる!!」
「「「いや、見舞うもなにも風邪治ったから」」」
ずびし、と総員で突っ込む。ちなみに、由紀香は友人たちの虚空に放った寸止めバックブロウの意味が判らずにほにゃりと首を傾げていた。
衛宮姉妹の弁当は、昨日余った食材を使ったものだった。メインのおかずは夕餉と同じく牡蠣フライ。そこに厚焼き玉子だのなんだのが彩りを加えている。フルーツは味が混ざるのをさけて別のタッパーに入れてあるのは基本的な配慮だ。
「作りたてほどではないが、やはり詩音の作った料理は絶品だな」
舌鼓を打つのは、弁当の所有者である衛宮姉妹ではなく鐘だった。基本的に、衛宮姉妹が自分の弁当を完食できることはほとんどない。昼食を陸上部と三羽烏とともに囲むようになってからのことだが、衛宮姉妹、とりわけイリヤに、そのことに関する不満は皆無だった。
たしかに、詩音の作った料理を十全に味わえないことに一抹の寂しさを憶えないでもないが、それ以上に、友人たちと談笑し、おかずを交換しあう、という昼食は何にも増して愉しい。それに、詩音の料理を味わうのは朝餉と夕餉で充分に補いがつく。
「しっかし、ほんとに衛宮の作った飯は旨いよなぁ」
あつあつの牡蠣フライを食べ損なった代わりとばかりにイリヤと詩音の弁当箱から牡蠣フライを強奪し貪り喰う楓は、そう言って鐘の賛辞に同意する。その横では、はむはむと可愛らしく厚焼き玉子を咀嚼している由紀香が、こくこくと頷き無言でそれに同意。
「……褒めても何も出ないってば」これって褒め殺しってやつかなぁ、などと考えながら詩音は話題を変えるべく口を開く。「そういえば残念だったねぇ、三枝さん」
「ふえ?」
「ほら、遠坂さんお昼に誘えなくて」
由紀香の弁当箱からきんぴらごぼうを失敬しながら、詩音は昼食前のやりとりについて口にした。そして、箸で摘んだきんぴらごぼうを口に含む。味がよく染みていて実に美味だ。微かに利いている隠し味だろう辛味はラー油だろうか。ゴマ油の風味の中にほどよい辛味がひかっている。
「あ、はい――」
詩音の言葉に、ぽんと手を叩いた由紀香は直後にしゅんと項垂れた。どうもこのぽやぽやとした雰囲気をもつ詩音のクラスメイトは、自分には無い、名前の通り凛とした空気を纏っている学園きっての才女に憧れているようで、今日も一緒に昼食を、と誘ってみたのだが、巧いこと言って逃げられてしまったのだ。
詩音、あるいはイリヤの見たところ、弁当を持参していない、という理由は、たしかに真実なのだろうけれど、それよりも不用意に一般人に近付くまいという魔術師の心構えの発露であるように見受けられた。果たしてそれは、面倒を避けているのか、はたまたクラスメイトを面倒に関わらせないようにしているのか、そのどちらかは衛宮姉妹に判別できなかったが、それでもかのセカンドオーナーが真っ当な魔術師であることはよく理解できた。
「まぁ、次の機会に期待だね、三枝さん」
きんぴらごぼうを咀嚼し、舌の上でその風味を十全に愉しんだ詩音は、しょんぼりと肩を落とす仔犬のようなクラスメイトに苦笑を含ませた声でそう慰めた。もっとも、詩音はそれほど遠坂凛との邂逅を残念がっているわけではないが。
父親の影響や、その後の経験も手伝って詩音は魔術に手を染めた身でありながら、魔術というものにそれほど重きを置いていない。ライターや携帯電話といった日常の道具、その延長ぐらいにしか魔術に価値を見出していない、真っ当な魔術師からは総スカンを食らいかねない考え方の人種なのだ。で、あるならば、真っ当な魔術師であろう冬木のセカンドオーナーと交友をもてなくても残念がる理由などない。
加えて、由紀香が憧れているであろう、遠坂凛の、凛とした空気にもさほど魅力を感じていない。何処かしら作り物めいたものを感じているからだ。むろん、誰であろうと余所行きの顔の一つや二つは持っているだろうから、その点をやいのやいのと言うつもりはない。ただ、同じ凛とした空気を放つ人間ならば、いささか取っ付き難くても、裏表の少ない鐘と一緒にいたほうが楽しめると感じていた。眼鏡仲間でもあるし。
「しかし、蒔の字」自分の弁当箱に詰められていた白米をすべて平らげ、弁当箱に蓋をした鐘が、思い出すように口を開いた。「クレープとたいやきを間違うのは如何なものかと思うぞ?」
「うっ」
自分でもあれはどうかと思っていたのだろう。凛とのやりとりの最後で放言した台詞に、楓は咀嚼していた牡蠣フライと厚焼き玉子と白米を喉に詰まらせかけた。別々に味わいなさい、だからカエデには慎みが、とはイリヤの弁。
「や、鐘。それは違うっしょ」
助け舟は意外なところから出された。楓の弁当箱から、若鶏の唐揚げを拝借してもぐもぐと咀嚼していた詩音が、それを胃の中に飲み込んで半畳をいれたのだ。楓の弁当は母親の作らしい。揚げる前にタレにつけこんでおいたらしいモモ肉のもつ風味と、ブレンドされた調味料の風味が舌の上で踊っていった。む、お母さん結構やりますな?
「確かに、値段も味も違うけど、クレープにしろたいやきにしろ、美味しく食べるっていう点ではまったくの等価だよ。そこには値段の差もなにもない。クレープにはクレープの、たいやきにはたいやきの良さがそれぞれあるんだから」
「む、一理あるな」
小さく唸って、鐘は詩音の意見に一定の理があることを認めた。あれだけの料理を作り出す人物の台詞だと、それなりの重さがあった。
「あ、でも私はたいやきのほうが好きかな」
日本を訪れていらい、詩音や虎に感化されたのか和食や和菓子の魅力に取り付かれつつあるイリヤは餡子のぎっしりつまった江戸前屋のそれに旗をあげた。
「わたしは……クレープもたいやきもどっちも好きです」
一見すると決断力に欠ける発言をしたのは由紀香だった。とはいえ、これは決めかねているというよりも、両者の持つそれぞれの魅力を尊重したと受け取るべきだろう。
「たいやきは熱いお茶に良く合うのだよなぁ」
おそらく、昨日衛宮邸で味わった玉露のことを思い出しているのだろう鐘はそう呟く。確かに、あの玉露は美味かった。そして、その玉露の渋味が、たいやきの和風な甘さを際限なく引き上げ引き出し作り出すハーモニー。和菓子万歳。
年頃の娘さんが甘味にこだわるというのは世界の定理なのだろう。教室の片隅で弁当をつつく彼女たちもその例に漏れることはなかった。結局、この場では決着がつかず、放課後、クレープとたいやきを食べ比べて喧々諤々の論争になるのだがそれは別の話。
衛宮家の一月三一日の夕餉は、何時もよりもそこに参加する人数が多かった。結局、あつあつの牡蠣フライを諦め切れなかった楓が、衛宮邸に乗り込み夕餉の相伴にあずかったのだ。そして、それに引き摺られるように由紀香と鐘も参加。衛宮姉妹、虎と合わせれば合計六人という大所帯であり、切嗣存命時から考えても未曾有の出来事であった。
もっとも、あつあつの牡蠣フライを期待していた楓は肩透かしを食らうことになる。今日の衛宮宅の夕餉に供されたメニューは、ぶりの照り焼きと豚汁だったからだ。もっとも、ぶりの照り焼きは、充分に脂の乗ったぷくぷくしたぶりの切り身に、酒、みりん、醤油を絶妙なバランスでブレンドしたタレが見事に染み込み焼き上げられた一品であり、これが炊き立てのご飯に良く合う。日本人に生まれて良かった、と心底思える代物であったので楓もそれほど残念がってはいない。
鐘や由紀香も、その味はもちろん、台所に一緒に立ち、詩音の見事な匠の技を拝見することが出来たので満足度では引けをとらない。由紀香は、母に代わって三枝家の台所に立つ機会が多いらしく、詩音の見事な技術は由紀香の技術の上達に寄与したらしい。
これでもっと美味しい料理が作れます、とは由紀香の弁。
詩音も、誰かに料理を教えるということは存外に愉しかったらしく、満足していた。なにしろ衛宮邸の食卓を囲う面子は、彼女以外には主に食べることをメインにしている人間ばかりなので、誰かと一緒に料理を作るという経験は稀なのだ。イリヤはそれほどでもないが、大河に関しては逆に台所に立たれると後で思い切り難儀するという人間なので、料理をさせようとも思わない。
帰国して間も無くの頃、喰ってばかりいないでたまには飯を作れ、と言った詩音に触発されて大河が拵えた代物は料理と呼ぶのは、真っ当な料理に対する冒涜といっていい代物だった。かといって、食材への感謝を忘れない、日本人が失いかけた心の持ち主である詩音は、その代物を流しの三角コーナーに破棄することも出来ず、泣く泣くそれを平らげたのだった。始末に協力させた張本人が平然とそれを食っていたのは驚愕であり、こいつ実は舌が莫迦なんじゃないのかとも思ったがそれは詩音の胸の奥に仕舞われている。
そうして、二日連続で珍しい客を迎えた衛宮家には、食後の一服を終えたあと、本来の住人だけが残ることになった。
いや、衛宮姉妹に加えてもう一人。
「ふむ、私にはあの魚料理はないんだな」
残った右手を使い、レンゲで御粥を口にする女性。名を、バゼット・フラガ・マクレミッツという。
「体力が回復しきってないだろうから、消化にいい御粥を作ったんだけど」土鍋でもくもくと湯気を立てる御粥を見ながら言うのは詩音。「ぶりの照り焼きも食べます?」
「いや、心遣い感謝する」
一見してシンプルに見える米料理が、存外に深い味を持つことにわずかな驚きを見せたバゼットは、詩音の申し出を丁重に断った。魚料理云々は単に口にしてみただけで、本来、自分がそんな我侭を言える立場ではないことは充分に承知している。
加えて、この御粥、とても美味い。
出汁をとるのにも使われたであろう鳥のほぐした身は、おそらく、刻んで入れてある茸の一種だろう食材とよく合っていたし、じっくりと煮込むことで、御粥全体に得もいえぬ調和を作り出している。食べる直前にといてかけた卵も、ふっくらと蒸れていていい按配だ。彼女が主に活動の拠点を置いていた倫敦ではまずお目にかかることの出来ない料理だった。
「詩音、居候にそこまでしてあげることもないと思うんだけど」
詩音の丹精こめた料理を食べるバゼットを半目で睨みながら言うイリヤの口調は、どこか不貞腐れたものだった。何処の馬の骨ともつかぬ女が、妹にわざわざ別に料理を拵えさせている現状が面白くないのだろう。
そんな姉に、詩音は苦笑を浮かべる。暖めなおした豚汁を御椀によそいながら、詩音は手製の粥を堪能するバゼットに語りかけた。
「これ、体が温まりますから」
「すまない」
はたしてそれは豚汁をよそってくれた詩音に言ったものか、はたまた面白くなさそうな顔をしているイリヤに対する詫びだったのか。バゼットは小さく会釈すると、豚汁の注がれた椀を手にとり、口をつけた。鼻をつく味噌の香りは、馴染みの無いものだったが、それでもけして不快なものではなかった。豚コマから染み出した味や、細かく刻まれた大根、にんじんといった野菜から出た風味が味噌を中心として溶け合う味は、舌の上に発生した小宇宙といってもいいだろう。さきほどのお粥もそうだったが、バゼットは食材の味を引き出す和食の技巧に感嘆の念を覚えずにはいられなかった。
一通り食べ終えたバゼットは、少し離れたところに控えてこちらを見る詩音に小さく頭を下げた。
「いや、美味しかった。有難う」
「お粗末様でした」
どうやら、心からの言葉であったと判断した詩音は小さく笑みを作った。もっともその笑みは視界の隅で不貞腐れているイリヤを見てすぐに苦笑に変わってしまったが。おそらく、自分や友人たち以外の女性と親しげにしているのが気に食わないのだろう。そうあたりをつける。了見が狭いといえばそれまでだが、それも自分を思ってくれるからこそだと思えば微笑ましくさえある。
そう考えた詩音は、笑みから苦いものを消し、バゼットに言葉をかけた。
「傷のほうはどうですか――あー、ミズ・バゼット?」
ことさら丁寧な態度を示す詩音に、バゼットは小さく苦笑。
「バゼットでいいよ、詩音さん。こちらは命を助けられた身だからね。畏まられても困る」言って、ちらりとイリヤの方を見れば、判ってるならいいわ、と言わんばかりの表情を浮かべていてもう一つ苦笑する。「傷のほうは、うん、処置が適切だったのと、痛み止めが効いているので、そう辛くは無い」
どちらかといえば、不意をつかれて無様を晒したことのほうが、辛い。バゼットは喉まで出掛かったその言葉をなんとか飲み込んだ。その翳りのある表情を見て取った詩音は笑みをけしてバゼットに問うた。
「バゼットさんは、あのイベントの参加者なんですよね?」
「と、いうよりも参加者だった、といったほうが適切だね。始まる前に脱落してしまったのだから。もちろん、それを問うキミたちも参加者なのだろう?」
「ええ、そうよ」
バゼットに答えたのはイリヤだった。その態度には、私たちは貴女と違って最後まで勝ち抜くけどね、という様子がありありと見て取れる。それを見た詩音は、小さく溜息をつき、思う。姉さん、大人気ないからやめようよ。
「まぁ、確かに」イリヤの態度に苦笑しながらバゼットは肯首する。「キミたちならば良い所までいくだろうな。何せあの衛宮切嗣の関係者だ」
「切嗣を知っているんですか?」
「むしろ衛宮切嗣を知らない魔術師のほうが少ないだろうな。特に、私のような荒事を専門にしているような魔術師は」
何時の間にか詩音が淹れていた玉露で一息ついたバゼットは、何かを思い出したように小さく身震いして言葉を続ける。
「私たちのような人種の間で、衛宮切嗣の名が口に上らぬことはなかった。むろん、けして大声でそれを言うものは誰もいなかったが、彼の死神のような実力が、真実死神の如く恐れられていたからね。悪魔のことを話せば悪魔が来る、というわけではないだろうが、それでもおおっぴらにそれを口にしようとは思わなかったな」
すでに鬼籍に入っているのにも関わらず、死してなお恐怖とともに語られる義父の人となりに、詩音は、はたして女にだらしがないことで知られるのとどちらがマシだろうか、と間の抜けたことを考えた。
「もっとも、あの衛宮切嗣にキミらのような可愛らしい子供がいたとはついぞ知らなかったが」
「ああ、私は養女ですから。切嗣が、前のイベントのあとで迎えた」
どうということはない、といった口調で言う詩音に、バゼットは小さく眉をあげてみせた。養女云々ということに関して、少し驚いているが、当の本人がさして気にした様子も無いことから、第三者がそれをどうこう言うべきではないな、と考えている。
「ふむ。では、あちらの――レディ・イリヤは。矢張り」
「私は切嗣の子よ。だからといって、詩音が私の可愛い妹であることには微塵もかわりはないけどね」
いっそ堂々と言ってのけたイリヤに、ふむ、とバゼットは頷いてみせる。詩音は、姉の言葉に嬉しくもあったが、それ以上に人前で私の可愛い云々とか言わなくても、とかすかに頬を赤く染めていた。
「なかなかに複雑な家庭事情のようだが、私がそれに関して口を挟むのは慎むべきだろうな。ただでさえレディ・イリヤにはあまり快く思われていないようだし」
「あら、判ってるじゃない」
いや、そりゃ判らないほうがおかしいだろう、と詩音は溜息をついた。そんな衛宮姉妹を見て、バゼットはくすりと笑みを零す。男装という装いのため凛とした印象をうけるバゼットがそうした仕草を見せると、いっそ少女のような雰囲気があった。
「根倉にしているホテルに戻るのも危険だろうからね、なんとか私の衛宮邸での立場を強化しておく必要があるな、これは。どうだろう、イベント期間中に回復するのは無理だろうから、正面戦力としては当てにならないが、私に出来る範囲で協力させてもらえないだろうか」
「あら、私は端からそのつもりよ?」
ふふん、と意地悪そうな笑みをみせるイリヤに、流石の詩音も顔をしかめた。ああ、姉さん、折角手を貸してくれるといっている人にどうしてそういう態度を。もちろん、そうした言葉が詩音の口から出ることはない。お姉ちゃん怖いし。ホワイトヘアーデビルだし。安西先生、バスケがしたいです。
「情報提供はもちろん、命の対価としてそれ相応のことをしてもらうからそのつもりで」
「覚悟しておこう」
答えたバゼットの言葉には、多分に溜息が含まれていた。後悔先に立たず。
一方、衛宮邸のある和風家屋が立ち並ぶ一角から離れた交差点の向こう側にある、冬木の霊脈の上に建つ見事な年代物の洋館では、セカンドオーナー殿がうっかりで狙いのセイバーではなく皮肉屋の赤い弓兵を引き当ててひどくご立腹だったり皮肉屋におちょくられて赤くなったりしていたがそれはまた別の話。うっかり。
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