新しい家に引き取られた私は、それまでと違い、内気な子供になっていたと思う。
元から我を通すタイプではなかったが、名字が変わってからそれに拍車が掛っていたことは確かだ。
おかげで、友達も出来なかったし、自分から作ろうともしなかった。
他人が恐かったのか、と問われると否定は出来ない。他人が恐かった、というよりも自分以外の世界の凡てが恐かったのかもしれない。
否、憎かった――のだろう。
みんな、どうしてあんなに楽しげにしているのか。私が、いつもいつもいつもいつも辛い目にあっているのに、どうして彼等ばかりああも楽しげでいるのか。
それが酷く羨ましく、憎らしかった。
そして、そんな自分の胸のうちを、誰かに知られるのが嫌で、私は自分の殻に閉じこもっていたような気がする。
だから、私には友達が出来なかったし、自分から作ろうともしなかった。
その日も、私は一人で過ごしていた。家にいるのが嫌で、誰かと遊ぶわけでもないので近くの児童公園にきていた。
砂場では、自分より少し小さな子供たちが整っていないお城を築いては崩し、ブランコや滑り台では、眩しいほどの歓声をあげて自分と同い年ぐらいの子供たちがはしゃぎまわっていた。
そんな公園で、一人ぽつんと草臥れたベンチに座っていると無性に自分が惨めに思えてきてならなかった。
これならいっそ薄暗い家の中でいたほうがまだマシだった――そう思い、私はベンチから腰をあげ、家路につこうとし、
「ねぇ、どうかしたの?」
見知らぬ子供に声をかけられた。自分より少し小さいその子は、その大半が白く褪せた赤く長い髪の女の子だった。
どうかしたの、と問われた理由が判らなかった私は、何が? と短く返していた。するとその子はスカートと同じ色の黒いブラウスの袖に包まれた腕を組んで、少し首をかしげて口を開いた。
「いや、なんか泣きそうな顔をしてたから」
――そんなこと、ない。
私はそう答えた。だが、実際、自分が惨めで、世界が恨めしくて、多分、私は泣き出したかったはずだ。
「ふうん」私の答えを聞いたその子は、つまらなさそうに声を漏らす。「ならいいけど。でもね、泣きたいときには泣いたほうがいいよ? 泣けばある程度気持ちが楽になるし、それに自分じゃどうにもならないことだって、泣いて助けを求めれば誰かが助けてくれるかも知れない」
たとえば正義の味方とか。そう言って、その子は小さく笑った。その顔をみて、巫山戯ているのだと思った私は、怒ったように、正義の味方なんていない、と叫んでいた。
そうだ、そんなものがいるはずない。そんなものがいるのなら、どうして私を助けてくれないのか。そんな私の叫びに、
「そりゃそうよ。こないだ死んだもの」
と複雑な表情をしてその子は言った。
それから少し言葉を交わしたあと、その子は公園をあとにした。お互い、名前も聞かなかったし、言わなかった。何処の誰かも知らない。
ただ、その子が最後に振り返って残した言葉は良く憶えている。彼女は至極真面目な顔でこう言った。
「正義の味方はいないかもしれないけど、貴女の味方はきっといる。だから、泣いて助けを呼びなさい。じゃなきゃ誰も気付かない」
「いい天気だな」
魔術協会所属の封印指定ハンター、バゼット・フラガ・マクレミッツ女史は衛宮邸の縁側に腰掛けてそう呟いた。
実際、莫迦みたいにいい天気だった。彼女が拠点をおく倫敦の冬と違い、所用で訪れたこの冬木の町の冬は、二月の頭としては酷く暖かで過ごしやすい。無論、程度問題ではあるが、コートを手放せぬ倫敦の冬と比べればはるかに過ごしやすい気温だ。
加えて、縁側に腰掛ける彼女には、午後のほどよい日差しがあたっていて気を抜くと居眠りしてしまいそうになるほどだった。バゼットは、どちらかというと、そうしたのんびりした雰囲気があまり好きではないたぐいの人種――でなければ海千山千の封印指定魔術師たちと丁々発止の血で血を洗う戦いに身をおいたりしない――だったが、ここ二〜三日はどうにも気が抜けて仕方なかった。
それなりに気合を入れて臨んだはずのイベント、それが始まる前に脱落してしまった、という現状が彼女にどうにもやる気を起こさせないでいた。まさしく不意打ちといっていい方法で脱落を余儀なくされたことには、今思い出してもはらわたが煮えくり返る思いを抱くし、充分に戦わせてやることが出来なかった相棒のことを考えると、悔しいどころの話ではない。
だが、それでも気が入らない。
おそらく、何をどうやってもこのイベントの最中にリベンジが出来るほどに回復すると思えないからだろう。実際、今こうして衛宮邸の縁側でのほほんとしていることは奇跡といっていい。あの夜、あの何処か抜けたような印象の少女に助けられなければ、自分は故国を遠く離れた異国の路傍にその躯を晒していたに違いない――彼女はそう考えていた。あるいは、あの男が後始末をして闇から闇に葬っていただろうか。どちらにしろ、真っ当な最後ではない。
むろん、魔術師、それも封印指定ハンターなどというやくざな仕事に手を染めている以上、真っ当な死に方をできるとは露ほども思っていなかったが、それはそれ、だ。
「焼きが回った、ということか」
インスタントのコーヒー――衛宮邸には残念なことにコーヒー豆の買い置きもなければ豆を挽いてコーヒーを淹れる道具もなかった――の入ったカップを残された右腕で持ち、啜る。インスタントにしては幾らかマシな味が舌を焼き、喉を胃へと落ちていく。切り落とされたのが利き手ではない左腕だったのは喜ぶべきだろうか。
「いや、焼きが回ったというより」
何が喜ぶべきか、だ。羽織ったジャケット、そのひらひらと緩やかな風にたなびいている左袖を見たバゼットは、小さく舌打ちをした。ああ、そうだ。焼きが回ったとかそんなことじゃない。私は浮かれていたんだ。昔馴染みの男に、力になって欲しいと相談されて、いい気になって浮かれて――このざまだ。ああ、やっぱり焼きが回ったのか。
カップを掴んだ右手に、我知れず力が篭り、
「おおっと」
ぽきん、とカップの取っ手が折れ、わずかに残っていたコーヒーが縁側に零れた。折り目のしっかりついたスラックスにかかりそうになるのを、さっと避ける。磨きこまれた板張りの縁側に、夜の闇のように濃いコーヒーが染みを作った。
「ああ、しまった。イリヤくんに怒られる」
バゼットは慌てて縁側から腰をあげると、食卓の上に置いてあった布巾をとりに向かう。食卓を拭う布巾で縁側を、というのは気が引けるが、あまり間を置いて縁側に染みがついてしまってはそれこそ何を言われるか判ったものではない。
布巾で零れたコーヒーを拭いながら、バゼットは、まぁ、スラックスを汚すよりは良かったか、などと思っている。今、彼女がその長い足に履いているスラックスは、故人である衛宮切嗣のものだった。血に塗れた自分のものを履く気にはならなかったし、第一、ところどころが擦れて破れていた。
ホテルにとってある部屋に置きっぱなしになっているトランクの中にある着替えを取りに向かうということも考えたが、万が一待ち伏せでもされていた場合、今の彼女では手も足も出ないだろうと容易に想像がついたので、それは行わないでいた。
かといって、衛宮姉妹の持つ衣服では彼女にはまったく合わない。女性にしては長身である彼女の体に、どう贔屓目に見てもお子様体型な衛宮姉妹の衣服はサイズが違いすぎた。無理をすれば着れないこともないだろうが、その場合、特殊な趣味を持つ世の男性方が喜びそうなことになるので試す気にもならなかった。そのおかげで衛宮姉妹の姉のほうはひどく機嫌が悪かったが、これはどうしようもない。何気に妹のほうも機嫌が悪かったのはご愛嬌だろう。二人から、ソノニクトタッパヲヨコセ――という無言の視線を浴びるのはなかなかに居心地が悪い思いだった。
おかげで、衛宮邸に遺された数少ない男物の衣服――つまりかつての衛宮家の家長である衛宮切嗣の衣服に足なり袖なりを通すこととなった。数が残っていないのは、朝夕にこの家を訪れるタイガーという人物がその大半を強奪してしまったかららしい。バゼットは、自分じゃあるまいし男物の衣服を分捕ってどうしようというのか、と頭を捻ったが、いくら考えても答えは出なかった。
まぁ、そうした次第でかつて音に聞こえた魔術師殺し、衛宮切嗣の衣服をバゼットは纏っている。そのことに衛宮の長女はあまり良い顔をしなかったが仕方ない。ただ、これ以上居候である自分の立場を低下させないために、近いうちに量販店で既製品のスーツの上下でも手に入れようとは考えている。
と、ようやくコーヒーを拭き取り終えたバゼットは、黒というより茶色く染まった台布巾を流しに持っていきながら、自分の身に纏っているスーツの持ち主が遺した子供たちのことを考えた。最初は、ただの子供だと思った。たしかに、自分に治療を施した手際こそ見事なものだったが、それでも、『一般人』の子供だと、そう思った。
だが。
「で、貴女もお茶にする? それともコーヒー?」
紙を貼った引き戸の向こうから、何一つ気負うことのない様子の声をかけられた私は、思わず声を漏らしそうになった。荒事に慣れてしまっているせいか、十全とはけして言えない体でなお気配を殺して引き戸の向こう側の様子を探っていたというのに、相手はこちらに気付いているようだった。
「――気付かれていたか」
数寸、反応をみせずに布団に潜り、狸寝入りと決め込もうとも思ったが、あれが十中八九、カマをかけた問いかけではなく、こちらが意識を取り戻していると確信していると悟った私は、諦めて引き戸を開いて声の主に答えた。
ストローマットの上にクッションを置き、そこにぺたんと座っている相手は雪の妖精を連想させる愛らしい少女だった。その少女は、こちらの姿を認めると、くすり、と何処か意地の悪い笑みを浮かべると私に再度問い掛ける。
「で、お茶? それともコーヒーにする魔術師さん?」
「――――ッ!?」
思わず、詰まったような声を漏らしていた。少女はこちらの正体を看破していた。ふと見れば、その少女の隣に腰掛けて取っ手のないでこぼことしたマグカップを両手で包むようにして持っている、同じ年の頃の少女が、やれやれとでも言いたそうな表情で苦笑しているのが見て取れた。
「……どうやら、こちらの正体は知られてしまっているようだな」
わずかに緊張――身体を戦闘態勢に移行させながら、つとめて平静な口調で私はそう言った。そんな私の様子を見て、少女はくすり、と笑いを一つ漏らす。
「まぁね。貴女のつけていたイヤリング。アンスールのルーンが刻んであったでしょう? それも、単なるファッションではなく、実用性の高い、魔力の篭った本物の」
もっとも、防衛の加護は働かなかったみたいだけれど、と少女は言う。
「なるほどね」
この少女は、こちら側の存在なのか――私は合点がいったと頷く。いや、これぐらいならば少しばかりオカルトをかじったことがあれば知っていても不思議ではないが、そこに魔力が介在していることが判るのならば、それは紛れもなくこの少女が魔術師だという証左だろう。
その割には、彼女からは魔力が感じられない。とはいえ、油断は出来ない。この時期、冬木にいる魔術師といえば、例のイベントの参加者である公算が高い。無論、相手もそう思っているだろう。つまり、敵。そう考えた私は、すっと身構え――
「やめておきなさい」
――体中から嫌な汗が吹き出た。
少女が口を開いた途端、その小柄な体から、先ほどまでは微塵も感じられなかった魔力が迸っていた。正直、体力、魔力共にがたおちの今の私には、息をするのも辛いぐらいの力だ。ほんの数寸前まで、欠片も感じることが出来なかったというのに、なんという魔力。
「今の貴女じゃ私に手出しすることなんて出来ないんだから。ま、貴女のコンディションが十全でも難しいでしょうけどね」
路上で明日の天気のことでも話すような調子でそう言った少女は、まったく気負った様子がなく、その身から迸る魔力と相まって彼女がまったくの真実を口にしていると否が応にも理解させられた。
「っ――――」
少女から発せられる魔力と、そのプレッシャーに、私は無様にも膝をついてしまう。相変わらず、全身の毛穴からは嫌な汗が吹き出ていた。少女をどうこうすることはもちろん、少女の前から逃げ出すことも出来なかった。まるで、蛇に射竦められた蛙のような有様だった。
「もう、姉さん」
その雰囲気から逃れることが出来たのは、私を圧する少女の隣に腰掛けている少女が口を開いたからだ。
「この人怪我してるんだから。そんなことしたら体に障るじゃない」
「あら、最初に何かしようとしたのは向こうよ?」
正当防衛よ、と少し拗ねたように言う少女に、だが、もう一人の少女は取り合おうとはしなかった。
「いいから。あんまり派手に魔力出してると幾らアミュレットがあってもセカンドオーナーあたりに悟られるって」
「ふン。判ったわよ」
何よ、詩音ったらこんな女の肩持っちゃって、と小さく呟くと、少女はその魔力の迸りを霧散と消した。途端、私を責め苛んでいたプレッシャーが綺麗に消えてなくなる。はぁ、と抜けたような呼気が口から漏れ、やっとのことで一息つくことが出来た。
「大丈夫ですか?」
諌めてくれたほうの少女――詩音と呼ばれた少女が、クッションから腰をあげ、膝をついて引き戸にもたれかかっている私の傍にくると、肩をかしてくれた。正直、立つのも辛い有様だったので有難い。そのまま、布団の上まで連れていってもらう。
「すまない、助かった」
布団の上に寝かしつけられた私は、詩音に礼を言う。すると、いえ、姉さんが悪いんですから、と詩音は小さく笑った。ちらり、と引き戸の向こうを見れば、あの少女が頬を膨らませていた。拗ねているのか、先ほどまで晒されていたプレッシャーのことを考えると、どうにもギャップがありすぎて微笑ましいことこのうえない。
「しかし、アレはどういうことだ」一息つけたことで安堵した私は、疑問を口にしていた。「幾ら腕におぼえのある魔術師でも、ああも見事に魔力を隠すことは出来んはずだぞ」
加えて言うなら、そこそこ修羅場を積んでいる私には、同族たる魔術師を嗅ぎ出すことに長けている。でなければ、封印指定などという厄介な連中を狩り出す仕事はやっていられない。
「あー、それは」
私の問いに、詩音は口を開きかけたが、ついと引き戸の向こうに視線をよこして口を噤んだ。向けられた視線の先では、相変わらず面白くなさそうな顔をしている銀髪の少女(詩音も銀髪だが)が、妹の視線をうけて、しばし考え込み、とりたてて隠す必要もないと判断したのか、口を開いた。
「まぁ、魔力を私が抑えてた、っていうのもあるけど――」言って少女は、胸元から小さな石の結わえられたネックレスを取り出してみせる。「この魔力遮断のアミュレットのおかげね」
「ほう」素直に教えてくれたこともそうだが、そのアミュレットの効果に私は思わず声を漏らした。「たいしたものだな、それは。よほど腕の立つ魔術師の作と見える」
その賛辞に、詩音も、銀髪の少女も難しい顔をしていた。
「あー、まぁ確かに腕はたつでしょうね」
「というか、たたないとおかしいというか」
「?」
微妙な表情をしている二人に、私は声をかけようとして、
「ッ!?」
失った左腕に、鈍い痛みをおぼえた。どうやらさきほどのやりとりで傷が開いたらしい。情けないことだが、苦痛に顔を歪めて苦悶の声を漏らした。
「ああ、大丈夫ですか? ほら、姉さんがあんなことをするから――」
「だからそれはその女が――」
そんなやりとりを聞きながら、私の意識は次第に薄れていった。
再び縁側に腰掛けたバゼットは、新しいマグカップにコーヒーを淹れなおし(インスタントというのはこう言うとき楽でいい)、あの夜の事を思い出していた。あの少女、イリヤは『一般人』の『子供』などではなかった。確かに、見た目こそ愛らしく、可憐ではあるが、あれは紛れもなく魔術師――それも、自分などよりもよほど力量が上の魔術師だ。
「魔術師が見かけによらないというのは嫌というほど判っているが」
マグカップを自分の傍らに置いたバゼットは、懐から煙草のパッケージを取り出すと、そこから一本抜いて火をつけるとそう呟いた。ブラックロシアンの、なんともいえない素晴らしい味が舌を焦がし、紫煙が肺を灼く。火をつけた黒い紙巻煙草の先から昇る煙がブラウン運動に基づいてゆらゆらと天へ向かう様子を見ながら、バゼットは溜息をひとつ。
あれほど見かけによらないのもそうはいないな、と思う。いったいどんな化け物だ。助けてもらっておいてなんだが、あれは化け物以外の何物でもない。ここ二〜三日一つ屋根の下で過ごしたことで、多少扱いが難しいが、随分と可愛らしい性格の少女だということは判ったが、魔術師という視点で見る限り、あれはとんでもない規格外――化け物としか言いようがなかった。
「なるほど、彼女であればこのイベントを勝ち抜くことにおさおさ不安はあるまいな」
本当にそう思う。彼女であれば、これから始まる物騒なお祭り騒ぎを順当に勝ち残るだろう。そう、自分のように開幕前にリタイヤするなどという無様は晒さずに。
「――――」
そこまで考えて、バゼットは自分が酷く自虐的な思考に陥っていることに気付き、メーカーがこれぞ煙草本来の味と言って憚らない、濃厚な紫煙を肺活量ぎりぎりまで吸い込むと、自分の裡にこもっていた昏い気持ちと一緒に盛大に吐き出した。一気に吸ったため、金色のフィルター近くまで燃え尽きている。灰が落ちる前に、かの魔術師殺しが生前愛用していたらしい陶器の灰皿で煙草の火をもみ消した。
体に良くないとは判っているが、パッケージからもう一本取り出して火をつける。だいたい、健康など気にしていては愛煙家などとてもではないがやっていられない。黒地に金で銘柄がステンシルされたパッケージには、三本しか残っていなかった。買い置き分はホテルにあるから、この三本を吸い終えたら新しく買い求めなければならない。近くに売っているかな、とバゼットは思った。
「まぁ、過ぎたことをあれこれ考えても仕方ないな」
幾ら考えたところで、時が遡るわけでもなし。バゼットはそう考えることで、後ろ向きになりがちな自分の思考の平安につとめることにした。一種の自己欺瞞ではあるが、死んだ子供の歳を数えるようなまねをしているよりははるかに良い。
「私は、今の私で出来ることだけを考えよう」
例えば、あの小さな命の恩人たちの助力。魔術師らしく、命を救ったことの対価を求められたことに関してはまったく異存は無い。むしろ、彼女たち――というかイリヤ――がそれを求めてこなければ、自分から言い出すつもりでいた。それは、現状、このイベントに参加する資格を失ったバゼットに出来る唯一といっていい積極的行動であり、間接的に復讐を果たす道でもある。
といっても、彼女たちに昨夜告げたように、正面戦力として助力するというのは不可能だ。下手をすれば――いや、下手をしなくても足手まといになる。バゼットに出来るのは、戦略、あるいは戦術面からの助言ぐらいだろう。確かに、イリヤという少女は魔術師としては破格といっていい存在だ。その点については疑う余地など微塵も無い。だが、それがイコール戦闘で生き残る可能性に繋がるか、というとそうでもない。
むろん、魔力は多いにこしたことはないし、魔術師としての技量があるにこしたことはない。ことに、これから始まる莫迦騒ぎでは、それが重要なファクターとなりえる。だが、それはあくまで戦闘に関するサバイバビリティという点では一要素に過ぎない。バゼットは、これまでの経験からそのことを嫌というほど理解していた。
だからこそ、その経験をもって彼女たちが勝ち進み勝ち残る一助としよう、そう考えている。
「それはいい。それはいいのだが、な」
昨夜のイリヤの口ぶりからでは、どうもそれ以上のことをさせられそうだ。正直、あの小悪魔娘(短い付き合いではあるが、バゼットはイリヤの本性がそれであることを見抜いていた)のあの表情を思い出すと、どうにも嫌な予感がする。流石に、戦闘時に盾になれ、などといわれることはないと思うが、流石に不安になる。
「本当に、何をさせられるんだろうな」
ゆらゆらと立ち昇る紫煙の、のどかな様子がいっそ恨めしく思える。衛宮邸の縁側に吸い込まれるようにして消えたバゼットの呟きは、何処か哀愁に満ちたものだった。
「三枝さん残念だったねぇ」
昼食時。詩音は同じ卓を囲む由紀香に、昨日と同じ慰めの言葉をかけていた。昨日は断られたが、今日こそは憧れの遠坂嬢と昼食を共にせんと意気込んでいた(まぁ、傍目から見たら相変わらずほにゃほにゃしているのだが)三枝由紀香のささやかな野望は、だがしかし、当の遠坂女史が欠席したことによって誘う誘わないというレベル以前の前に頓挫したのだった。
哀れ由紀香はそうした次第でしょんぼりと弁当を突付いている。心なしか食べる量も少ない。もっとも、その分、楓がこれ幸いと由紀香の分まで食べているが。大河に続く欠食児童二号である。世の中はなにかしらバランスがとれるようになっているということだろう。
ちなみに、由紀香のお目当ての遠坂女史は昨晩喚び出した皮肉屋の赤い弓兵とデート――じゃない、戦場視察の真っ最中である。もちろん、赤い弓兵におちょくられて赤くなったり青筋を浮かべながらの視察であることは言うまでも無い。
「まぁ、ほら、明日になれば遠坂さんも元気になって学校に来るって」
「そ、そうですよね」
「多分」
「はぅ!?」
ああ、落ち込んだり困ったりしてる三枝さんも可愛いなぁ、などと暢気なことを考えながら弁当を突付く(ああ、こら蒔寺さん私の弁当箱からそんなにもっていくな!)詩音は、だがしかし、その一方でセカンドオーナー殿が学校を休んだ理由についても考えていた。
「それにしても、遠坂が欠席とは珍しいな」
ほどよく塩味の利いた鮭の切り身を咀嚼して、鐘がぽつりと漏らす。
「そうなの?」
昆布の煮付けを口にしたイリヤが、それをもぐもぐごくんと飲み込んで首を傾げた。そんなイリヤに、鐘は、うむ、と頷いてみせる。
「イリヤや詩音は転入してきて間もないし、さして交流もないようだから知らんだろうが、彼女は学園有数の優等生として知られているほど真面目な生徒で――」
「猫被ってるだけだって」
「――多少の体調不良ぐらいでは欠席はしないのだな、これが」
途中入った楓の半畳をスルーして、鐘はそうイリヤに教えた。
「あー、そういえば遠坂さんからは、こう、なんていうか委員長的なオーラを感じるなぁ。そのわりには何の役職にもついてないけど」
楓とエモノの奪い合いを繰り広げつつ、詩音は呟く。竜田揚げの死守に成功。
「うむ。何故かは知らんが、どうもその手のことには手を出していないな――どれ、失礼」
「ああっ!? 折角守った竜田揚げをっ!?」
「――貴女たち、レディとしての慎みを持ちなさい。レディとしての慎みを……あ、ユキカ、そのタコさんウィンナー頂戴」
「あ、どうぞ。好きなんですか? タコさんウィンナー」
「うん、可愛らしくて」
「だから私の弁当箱からばっか持ってくなー!!」
「いやー、だって美味しいんだからしょうがないだろ?」
「まったくだ」
「鐘もさりげなく持ってかないのー!! ああ、最後の竜田揚げがッッ!?」
昼食時の2年A組は戦場になる。一部限定で。
「やっぱりあれだと思う?」
夕餉が終わり、飯をたかりにきていた虎が帰ったあとの衛宮家の今で、詩音が口を開いた。卓を囲む面子は、彼女と、彼女の姉のイリヤ。それに、彼女たちの参謀役を買って出たバゼット・フラガ・マクレミッツ女史だ。
「十中八九喚んだんでしょうね」
濃い目の番茶――今日は玉露の気分ではないらしい――が湯気を立てる湯飲みを両手で包みながら、イリヤが答えた。話題にしているのはもちろん、今日、学校を休んだ遠坂女史のことだ。
「セカンドオーナーかい?」
彼女たちに合わせてか、コーヒーではなく日本茶を口にしているバゼットが、思ったよりも渋いお茶に顔をしかめながら尋ねた。
「ええ。今日学校を休んでたから。単に病欠って可能性もあるけど――喚び出したって考えるのが妥当だと思う」
「――ふと疑問に思うのだが、尋ねてもいいだろうか」
「スリーサイズとかじゃなければ御随意に」
聞かれたくない理由はもちろん目の前の女性に比べて随分アレだからだ。乙女心は難しい。そんなイリヤに小さく苦笑して、バゼットは問いを発した。
「キミらはあれか? セカンドオーナーと同じ学校に通ってるのか? イベントで敵になる可能性が高い相手と同じ学校に?」
「えーまーそのー」
バゼットの問いに、汚職で叩かれたことのある大物政治家のような前置きをして、詩音が口を開いた。
「本当は行くつもりはなかったんですけどー、こう、虎に逆らえなくて」
「虎? ああ、藤村とかいう女性だね? ――なにか弱みでも握られてるのかい?」
「そういうわけじゃないんですけどね」詩音は苦笑。「まぁ、昔世話になってた姉代わりで、どうにも頭が上がらないというか、その。ねぇ?」
「なんでこっちに振るのよ」
イリヤも、やはり苦笑を浮かべている。そんな彼女たちを見て、バゼットは首を捻る。魔術師として当然の問いを発した。
「暗示でもなんでもかけてしまえばいいじゃないか。開幕前にいらん危険を冒すのはどうかと思うよ?」
「まぁ、そうなんですけどね」
「詩音がね、タイガにそういうことをしたくないんですって。ほんとアマチャンなんだから」
「なっ、ね、姉さんだって賛成したでしょう!!」
事実だった。最初は、大河の強引な説得(というかアレは説得とかそういうものじゃなかった、とはイリヤの主張)に渋面を作っていたイリヤだったが、顔を合わせて間もない自分のために何かしてくれようとするタイガの温かさにほだされた結果、彼女は穂群原への編入を承諾していた。
「あら、そうだったかしら?」
「わ、私? 私だけなの!? 私だけの責任なの!?」
まぁ、それを素直に認めるほどイリヤはシンプルな性格をしていない。それに、妹をおちょくるのは酷く愉しい。次に愉しいのは大河をおちょくることだ。悪魔っ子イリヤここにあり。
きゃあきゃあと騒ぎ始めた衛宮姉妹を、バゼットはどこか呆れたように見ていた。まぁ、確かにあのアミュレットがあればよほどのことでもない限り、彼女たちが魔術師だと露見することはないだろう。それは認める。だが、甘い。身内の人間に、記憶操作や暗示をかけたくない、というのは魔術師として致命的に甘い。甘すぎる。
だが。
バゼットは、もう少しでキャットファイトに発展しそうな姉妹のじゃれあいを眺めながら、何時の間にか自分が微笑んでいることに気付いていた。
甘い。確かに甘いのだが、何故かそれが快く思えてしまう。自分が、日の当たらない魔術師という人種の中でもとりわけ血の臭いのするヤクザなことに手を染めているからか、バゼットには、イリヤと詩音のもつ甘さが、荒んだ自分の心を癒してやまないような気がしていた。
「ククッ」
思わず、小さく笑い声が漏れる。
本当に、この少女たちは。
これから血風吹き荒ぶ莫迦と非常識の見本市みたいなイベントが始まろうとしているのに、この子たちはなんて良い笑顔で笑うのか。
宜しい。
バゼットは一人決意する。
この子たちが勝ち抜けるよう、この子達が戦いのさなか笑っていられるよう、私は自分の及ぶ限りの範囲で助力しようじゃないか。
バゼットは、衛宮姉妹には告げず、そう決意した。決意したら、気が軽くなった。どれ、私も騒ぎに混ざってみようか。多少トウがたっているが構うまい。私だって女の子だ。
「わっ!?」
「きゃっ!?」
衛宮邸に響く愉しげな声に、新しい声が加わったのはそのすぐ後だった。
その頃、赤い弓兵を従えた冬木のセカンドオーナーは、高層ビルの屋上で、
「へくちょんっ!」
可愛らしいくしゃみをしていた。
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