とおさまは、わたしたちをうらぎった――おじいさまは、そういっていた。
おじいさまがそういうたびに、かなしそうなかおをしていたかあさまは、からだをこわしてしんでしまった。
のこされたのはおまえだけだとおじいさまはいい、わたしのからだにてをくわえていった。
たくさんいたいおもいをしながら、とおさまはいつわたしをむかえにくるのだろうとおもっていた。
だって、かあさまは、いつだってやさしげなかおで、いつかとおさまがわたしたちをむかえにきてくれるのだといっていたから。
でも、できるなら、わたしがにんげんであるうちにむかえにきてほしい。
このままおじいさまたちにいじられていたら、そのうちわたしはわたしでなくなってしまう。
きょうもいっぱいいじられた。いっぱいいたかった。またわたしがわたしであるところがなくなっていった。もしかしたら、もうわたしはのこっていないのかもしれない。
そうだったら、とおさまはもうむかえにきてくれないのだろうか。もしそうだったら、すごくかなしい。わたしは、そうなったらどうすればいいんだろうか。
――なんだろう。そとがさわがしい。おっきなしけんかんのなかにいても、がやがやとみんながさわぐこえが――
――びっくりした。いきなり、おへやのどあがふきとんで、だれかがしけんかんをたたきわった。おいしくないおみずがはいからでて、せきこんでいると、だれかがわたしにこえをかけてきた。みれば、ほとんどしろくなったかみに、はいいろのかみがまじったおんなのこだった。もうちょっとで、わたしとおなじかみ。そのこはいった。
「ええと、こんにちは――ああ、もう夜なのか。こんばんは、イリヤスフィール姉さん。ええ、長いからイリヤ姉さんって言うわね。私の名前は衛宮詩音。よろしく。――貴女から貴女のお父さんを奪った敵よ」
そのこは、にこりとわらっていきなりまくしたてた。そして、そのことばのなかにはきになることが。
「あーうぅー?」
ききたいのに。どういうことなのかききたいのに。こえがでない。ながいあいだしゃべってかったせいかこえがでない。きかないと。きかないとだめなのに。
「喋れ――ないの?」
そんなわたしのようすをみて、そのこはかおをゆがめた。なにか、ちくしょうどもめ、とかいっているのがきこえた。
「聞いてイリヤ姉さん」
そのこはひどくしんけんなかおでいった。なにかいそいでいるようだった。
「とりあえず、決めて。私についてきて、復讐するか――ここに残ってあの連中の道具にされるか。ここに残っても私に復讐できるかもしれないけど」
だけど、とそのこはかなしそうにいった。
「出来れば、私と一緒に来てくれるととても嬉しいわ」
わたしは――
「痛い痛いいたたたたたたた!? 姉さん本気で痛いのー!!」
「煩い黙りなさい詩音これは罰よ姉を置き去りにして帰った悪い妹にたいする罰」
「ちがうのーあれにはマリアナ海溝よりも深い理由がー……ぃたたたたたたー!? 痛い姉さん洒落にならないレヴェルで痛いー!?」
「言い訳は聞かないわだから黙って自分の罪深さに悔い改めながら地獄へ落ちなさい」
「あの、イリヤ――マスターが死ぬほど痛がっているので……うっ、いいえ、なんでもありません」
「サーヴァントに見捨てられた――ッッ!?」
場所は、衛宮邸の居間。そこに、詩音の悲痛な叫びが近所の迷惑を顧みずに響きまくっていた。額に青筋浮かべっぱなしのイリヤが、おそろしげな笑顔のままで妹にスコーピオン・デスロックをマヂキメしているのだ。これは痛い。ぎぶ、ぎぶー!! と畳をタップしまくる詩音をみかねてほんの数十分前に彼女のサーヴァントになったセイバーがとりなそうとしたのだが、イリヤの凄い視線にあっさりと逃げをうったのだ。
「お、折れる! 折れるー!? 姉さん許してー!? いたたたたたたたたたたたた!!」
なんだか洒落にならない音を詩音の骨格があげはじめる。それまで、姉妹の微笑ましいじゃれあいを眺めていたバゼットが、流石に止めたほうがいいかとイリヤに声をかけた。
「うん、イリヤくん。うっ……あ、いや、どうだろう、そのへんにしておいては。ほら、ミズ・氷室に事情を説明したりしなきゃならんだろう?」
セイバーに向けたのと同種の視線を叩きつけられたバゼットが、一瞬怯みそうになりながらも言った言葉に、イリヤは、こちらのほうを、むぅ、アレは痛そうだ、と玉露をすすりながら眺めている鐘をみて、それもそうかと考えた。楽しい折檻もこれぐらいにしておこう。でも最後に、
「うぁいたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」
ぎり、と強くきめてから、イリヤは詩音を解放する。解放された詩音は、というと最後のキメがトドメになったのか、泡をふきながら白目を向いてマットに沈んだ。
つーかマットじゃねぇ。
それは兎も角、イリヤは白目向いてぶっ倒れた不甲斐ない妹に気付けを一発かまして叩き起こすと、改めて炬燵に足を突っ込んだ。
「さて、何から話すべきかしらね?」
「というか、教えるのかい? 自分で言っておいてなんだが」
バゼットは何時の間にか詩音が淹れなおした玉露の入った湯呑みを手の内で弄びながらイリヤに尋ねた。言外に、一般人である鐘にこちら側のことを教えるのはどんなもんだ、と言っている。なんといっても、バゼットは協会直属の魔術師なのだ。
「仕方ないでしょう」そんなバゼットに、イリヤは肩を竦めてみせた。「鐘は、もう巻き込まれているんだもの。このまま記憶を弄って、というのも手だけれど、私は友人にそんな真似をしたくはないし、第一、記憶を弄って放り出しても、向こうが放っておいてくれるとは限らないわ。ランサーは詩音が鐘を庇うのを見ているのよ。たとえ記憶がなかろうと、鐘の存在は、詩音に対するウィークポイントとして作用するわ。私だったら放っておかないわね」
「なるほど、道理だ」
バゼットはイリヤの問いに頷いた。記憶をどうこうというのは、タイガーという女性に対する接し方で判るように、この姉妹はまず行わないだろうし、ランサーの現マスターが鐘を放っておくかどうかという点についても同意せざるをえなかった。
「では、どこから説明すべきかな」
結局、バゼットもイリヤが発した言葉と同じことを口にした。その場にいる鐘以外の人物の視線が黙って玉露を啜っている鐘に集中する。
「――そうだな」自分に集まった視線に、鐘はどこか居心地の悪さを感じながら口を開いた。「とりあえずは――イリヤ、詩音、それにバゼット女史。キミらはなんなのだ?」
その問いに、イリヤと詩音がびくり、と背を震わせる。それは正体を偽っていた自分たちへの鐘の弾劾のように二人に聞こえたのだ。だが、
「ああ、待て。勘違いするな」そんな二人を見て、鐘は何処か憤慨したように言った。「見縊るなよ、イリヤ、詩音。私はキミらがなんであろうとキミらを友人だと思っている。うん、口にすると気恥ずかしい限りだが、そう思っている。私は、判らないから、聞いている。それだけだ」
それは、一片の偽りもない鐘の本心だった。イリヤと詩音は、付き合いこそ短いが、楓や由紀香と同じように、鐘にとって心を許せるかけがえの無い友人なのだった。それに、鐘は忘れていない。ほんの数十分前に、自分のために得体の知れない恐ろしい存在の前に立ち塞がってくれた詩音の背中を。傷付きながらも立ち上がろうとしてくれた詩音の姿を。ただ、正体が判らないというだけで、どうしてそんな彼女たちを責められようか。
鐘のそうした言葉に、イリヤと詩音は一瞬、泣きそうな顔をつくり、ついで心からの笑みを浮かべ、小さく有難うと呟いた。
「――鐘、貴女は魔術師の存在を信じる?」
何処までも真摯な態度を見せる級友に、いつもの何かをからかうような態度をすっかりと仕舞いこんで、イリヤは真剣な口調で尋ねた。
「魔術師? アレか? 御伽噺に出てくる魔法使いのことか? ――そういえばそこのバゼット女史もそんなことを言って」
「まぁ、魔術と魔法は違うんだけどその説明はまた今度ね」自分の問いに何やら考え込み始めた眼鏡の級友に苦笑して、イリヤは言葉を続けた。「誰もが忘れ、御伽噺や絵本の中の存在だと思っている魔術師――それが、私と詩音の正体よ」
ついでに、そこのバゼットも、とイリヤ。そんなイリヤに、私はついでかね、とバゼットは肩を竦めた。正体の秘匿に関してはすっかり諦めたらしい。
「いきなりそう言われても、な」
正直、面食らうとしかいえんぞ、と鐘は言った。無理もない話だ。いきなり私は魔術師です、などと知人が言い出してはいそーですか、と頷ける人間はそういない。下手をすると頭の病院を紹介してさようなら、ということになりかねない。
「いや、もちろん、今宵起きたことが――あの青い男の存在が、尋常ならざるものだということは私も理解しているが」
「それがフツーの反応だよねぇ」
鐘への説明を姉に任せ、自分は姉から受けたダメージの回復とお茶汲みに徹していた詩音は、姉の湯呑みに玉露を淹れながらうんうんと頷いた。脳裏に、何時の日だったか、いまだ健在であった切嗣が、「僕はね、魔法使いなんだよ」と、とっておきの秘密を教える悪童のような顔で告げてきたときに自分がどんな反応を示したか思い出す。あの時詩音は言ったものだ。「いけない、雷牙の爺様に医者を紹介してもらわないと。――脳の」と。
「はいそこ茶々入れない」
「――姉さん、傷付いた妹のリバーに鬼のようなフックを叩き込むのはどうかと思うの」
「もう治ってるでしょうに。それは兎も角、鐘がそう思うのも無理はないわ。誰だってそう思うわよね。むしろ、そこで『そうなのか』なんて納得する奴がいたらそいつは変人よ。もしくは阿呆よ。将来詐欺に合って酷い目見るわ」
この瞬間、何処かで赤いのがくしゃみをしたとかしないとか。それは兎も角。
「でもね、鐘。これは事実よ。そして、これを受け入れてもらわないと、これから話す内容にはついてこれないわよ?」
「――む」真剣な瞳でそう言われた鐘は、小さく唸ったあとで、両手をあげた。「判った。信じよう。どうやら嘘をついているようではなさそうだしな」
「精神を病んでいるわけでもないからねー」
「茶々を入れるなというに」
手をひらひらとさせながら言う詩音を拳で黙らせて、イリヤは説明を再開した。
「で、鐘が次に聞きたいことは――、あの青い男がなんであるか、よね?」
その言葉に、死の恐怖を思い出したのであろう鐘がぶるりと背を震わせながら頷くのを見て、イリヤもまた頷きながら言う。
「アレはね、サーヴァントっていう、とある魔術儀式で魔術師が使役する一種の使い魔のようなものよ。もっとも、使い魔といっても、フツーのヒトが使い魔という単語から連想するカラスやクロネコなんて可愛らしいもんじゃないわ。英霊と呼ばれる古今東西の英雄たちを呼び出して一時的に言う事を聞かせている、人外の存在よ。その戦闘能力は人間を遥かに超越し、信じられない力を発揮するわ」
イリヤの説明に、鐘は思わず詩音の隣で茶請けのどらやきを一心不乱に頬張っているセイバーを見る。今まで黙っていたのは喰うのに忙しかったからか。というか、山ほど盆に積まれていたどらやきがほとんど残っていないというのは喰いすぎなんじゃないのか。このはむはむと(喰った量さえ考えなければ)愛らしいとさえいっていい様子でどらやき喰ってる存在が、イリヤがいったような大層な存在なのか――
思わず眉をひそめた鐘は、いやいや待てよ、と思い直す。
確かに、炬燵でどらやき喰ってる姿こそアレだが、あの青いサーヴァント――イリヤとバゼットの会話から推察される固有名称はランサー――との戦いでの動き。確かに、あれは人間のそれなど余裕で超えている。まっとうな人間が鍛えてどこまで動けるかは判らないが、すくなくても、あんな動きは出来はしまい。
「それで――」正直、信じ難くはある。そう思いながらも、鐘は問う。「その魔術儀式とはなんだ? 生贄を捧げて悪魔でも呼び出すのか」
「それは
イリヤが肩を竦めたのを見て、今まで黙っているか場を混ぜっ返して(本人は重くなりがちな場を和らげているつもりらしい)いた詩音が、真剣な口調で鐘に尋ねた。
「鐘――、ガンダムファイトって知って……いたぁっ!?」
フックが連発で飛んできた。
「まぁ、おばかのたわ言は放っておいて」畳の上で燃え尽きている妹を横目に、イリヤは咳払いをひとつ。「昔、日本有数の霊脈――魔力の吹き溜まりである冬木の地を利用して、ある魔術師たちが、ひとつの儀式を作り上げたの。数十年に一度、蓄積された膨大な魔力を利用して、あらゆる願いをかなえるという願望機――聖杯を降ろすという魔術儀式」
「モンティーパイソンじゃないわよ――げふぅ!?」
しぶとく混ぜっ返す妹にイリヤはとどめを。鐘はというと、詩音のいらん茶々のおかげで、脳内に変な外人たちがシリーウォークしている映像が浮かんできたりこなかったり。
「で、その聖杯を手にいれるために、魔術師たちは聖杯の力で使役が出来るようになった英霊――サーヴァントを駆使して殺しあう」
「それが冬木で行われる莫迦と阿呆の乱痴気騒ぎ。愚か者たちの宴――聖杯戦争」
「――詩音、説明をヒトに任せておいて一番いいとこをかっさらうとはどういう了見かしら。まさか貴女、シメのタイミングを窺ってたんじゃ」
「――姉さん、いいとこ持ってくのはヒロインの特権……痛い! 痛いのー!? 関節技は地味に痛いのー!?」
チキンウィングアームロックでした。それはともかくヒロインとかメタなこと言うな――じゃない、再び始まった折檻地獄を尻目に、鐘はむぅ、と唸り声を漏らして腕組みした。生まれ育った土地で、そんな物騒なことが行われているなどというのは、どうにも――
「信じ難くあるな、しかし」鐘は、眼鏡を外し、瞼を揉んだ。眼鏡をかけなおし、言う。「イリヤと詩音が魔術師であるということよりも信じ難い。だが、事実なのだな?」
「事実よ」妹の腕をギリギリと締め上げながら、イリヤは頷いた。タップは無視。「そうね、今度暇があったら調べて御覧なさい。いろいろと隠してあるけど、どうにも奇妙な事件が数十年ごとに頻発しているのが判ると思うから。いいえ、そこまで記録を遡る必要もないわね。鐘、貴女、もちろん十年前の大火災は知っているわね」
「もちろんだ。私自身は罹災しなかったが――」そこまで言って、鐘ははっとした。「そうなのか? あの大火災も――」
「聖杯戦争が原因よ」
答えたのは、イリヤではなかった。腕を決められたままの詩音が、その痛みすら忘れたような真剣な表情で鐘の問いに答えていた。
「前回の聖杯戦争終盤に引き起こされた未曾有の大災害。死傷者は五百人超過。焼失した家屋は一三四棟という最悪の災害」言って、そこで詩音は何かに耐えるような表情を浮かべた。「その引鉄を引いたのはね、私の養父――衛宮切嗣とそのサーヴァントなのよ」
「――詩音の、父親が?」
突然のディープな告白に、鐘は呆然と友人の表情を窺う。嘘をついている顔ではなかった。そこには、払いきれないほどの負債を抱え込んだ債務者のような表情が浮かんでいた。あるいは、そうした事情があるからこそ、詩音はこれまでゆるゆるな態度をとっていたのかもしれない――鐘はそう思った。おちゃらけなければやっていられないほどの事実を抱え込んでいるがゆえの、軽い態度。鐘には、そう思えてならなかった。無論、その本当のところは詩音の胸のうちに隠されているのだが。
「そう、前回の聖杯戦争で勝ち残り、聖杯を手にする寸前だった切嗣は、『何故か』聖杯を自分のサーヴァントに破壊させた。そして、その余波でいま新都と呼ばれている区画は炎上。そして、私もそこで拾われたのよ」
「――――」
最後に残ったどらやきを頬張っていたセイバーの口の動きが、止まる。そして、鐘は、というと、
「詩音――」
父の罪の重さにか、今にも泣き出しそうな、触れれば壊れてしまいそうな雰囲気の詩音に、鐘はなんと声をかけるべきか、言葉に迷う。だが、
「この、ばかちん」
「うぁいたぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁッッ!?」
奇妙な音と、詩音の悲鳴が居間に響いた。
「――バゼット女史。私の聞き間違いでなければ、今、何か枯れ木が折れたような音が聞こえた気がしたのだが?」
「奇遇だな、ミズ・氷室。私の耳にも聞こえたよ。――折れたな、アレは」
「むぐっ、イリヤ、わたしのマスターに、ごくん、いったい何をするのですか!?」
白目を向いて泡をふく詩音の右手が、奇妙な方向に捻れていた。イリヤは、そんな詩音に怒り顔で一喝する。
「詩音、貴女はいつもどうしてそう何でもかんでも一人で背負い込もうとするの!? 切嗣の罪は切嗣の罪で貴女の罪じゃないのよ!! だいたいが、貴女も犠牲者の一人でしょうに!! それをまるで自分が火をつけて廻ったような顔をして――」
「すまないがイリヤ」
「なに?」
肩で息をしながら説教を始めたイリヤに、鐘が申し訳無さそうに声をかけた。
「気絶してる」
「――あらやだ」
「ふひー死ぬかと思ったー」
折れたはずの腕を、なんでもなかったかのように振りながら、詩音は溜息をつきながら言った。空いている手で、自分で淹れた玉露の入っている湯呑みを握っている。そんな彼女を、珍奇な生物でもみるような視線で鐘が見ていた。となりに座って似たような顔で詩音を見ているバゼットに小声で話し掛けた。
「バゼット女史。魔術師というのはみな、あのような回復力の持ち主ばかりなのか?」
「ミズ・氷室。それは誤解だ。たしかに、魔力で傷を普通より早く治す術――キミの太腿を治療したような術は存在している。だが」言って、バゼットは能天気な表情で玉露を啜っている詩音を胡乱そうに見た。「完全に折れた腕をものの数分で完治させるような真似は出来ん」
トカゲなみの回復力だ、とバゼットは唸った。
「ヒトの可愛い妹をつかまえてトカゲ扱いはどうかと思うわ」
「その可愛い妹の腕をへし折った姉さんが何を――うん、なんでもありませんごめんなさいすいませんもういいませんからゆるして姉さん姉さんゆるして」
台詞の途中でにこりと姉に笑いかけられた詩音は座布団を頭に被ってガタガタと震えながら謝り倒す。あまりの怯えっぷりに、流石にばつがわるくなったのか、イリヤはそんな妹からそらして、言い訳めかして言葉を紡いだ。
「あ、あれは詩音が悪いんだからね? いつもいつもすぐに自分が悪いみたいな顔をするから、だから、その……」
「イリヤ」次第に声が小さくなるイリヤに、微笑ましいものを感じながら鐘は言う。「こういうときは、素直に謝るのが一番だと思うが?」
「うっ……詩音、ごめんね? 痛かったでしょう?」
その謝罪に、詩音は数寸目を丸くし、ついで小さく微笑ながら首を振った。
「いいのよ、姉さん。悪いのは私のほうなんだから」そう、何時だって悪いのは私。いや、まぁ、さっきのは死ぬほど痛かったけど。なんてことを思ったりしながら、詩音はしゅんとしている姉を優しく抱きしめた。「だから、姉さんは気にしないで」
姉さんがそんなだと調子狂っちゃうわ、と詩音は冗談めかして笑った。
「もう、ばか」
「良い雰囲気のところを申し訳ないんだが」
げふんげふんと、わざとらしい咳払いとともにバゼットが声をかけてきたことで、詩音とイリヤは慌てて抱擁を解いた。二人が慌てて居間にいる者たちの顔を窺うと、誰もが微妙に顔を赤く染め、気恥ずかしげな表情を浮かべていたのが、二人の居心地を悪くした。
「そ、それで何の話だったかしら? あ、詩音のトカゲじみた回復力のことだったわね?」
「姉さん、自分でトカゲ扱いしてる……」よよよ、と泣き崩れるふりをして、詩音は言葉を続けた。「あー、私のこの回復力はねー、そこのセイバーを喚び出すのに使った触媒のおかげなのよね。また昔の話になっちゃうけど、あの十年前の大火災に巻き込まれた私は、そりゃもう酷い火傷を負ってね、三途の川の渡し守に六文銭手渡す寸前ぐらいに死にかけてたの。それを、生き残った人間を探してた切嗣が見つけて、その触媒を埋め込んで助けてくれたの。まぁ、セイバーが座に戻ってからはちょっと回復力があるっていう程度に収まっていたけど、再びこうしてセイバーが現界したおかげで、触媒も活性化、私の回復力もぎゅんぎゅんアップした――と、いうわけなのよ」
「待て」けらけらと笑いながら説明する詩音に、バゼットは問う。「つまり、キミのサーヴァントは前回の聖杯戦争で切嗣氏が使った――」
「その通り」
答えたのは、イリヤだった。彼女は誇らしげに胸を張り、告げる。
「強豪ひしめく前回の聖杯戦争、その並み居る敵の悉くを討ち果たし、聖杯を手にする寸前までに至った最強の英霊――それが、切嗣の残した私たちのサーヴァント・セイバー!!」
「姉さん、妹の台詞をとるのはどうかと思うの」
「さっきのおかえしよ」ふン、と鼻を鳴らしてイリヤはそっぽを向いた。「とりあえず、セイバー。貴女の鞘は、私の妹の中にあるわ――でも、悪いけど返してあげられないの。貴女よりも、私の妹に持たせていたほうが何かと便利だし、何より、私の妹にはアレが必要なのよ」
「構いません」どらやきの無くなった盆を名残惜しそうに眺めながら、セイバーは答えた。「確かに、私が持っているより、マスターの安全を確保できるでしょう。それよりも、私の鞘のことを知って――いいえ、私の以前のマスターがキリツグだということを知っているということは、貴女たちは私の真名を知っているのですね」
「もちろんよ、騎士王」にやりと笑って、イリヤは答えた。「期待してるわ。精々、私と妹の役に立ってもらうからね」
「姉さん、だからそういう言い方はどうかと思うの――ごめんね、セイバー? うちの姉さんはこういう性格なのよ」
茶を啜りながら謝る詩音に、セイバーは柔らかな笑みを浮かべて首を振った。
「気にしていません。サーヴァントがマスターのために役立つのは当然の義務ですから」
「とりあえず」炬燵の上の盆やら湯呑みやらを詩音に片付けさせたイリヤが、口を開いた。「今後の予定だけど」
「疲れたので眠っても――なんでもありませんごめんなさいゆるしてください」
右手をしゅたっ、と挙げて発言した詩音は、だが、イリヤに微笑まれて口を閉じた。妹を黙らせたイリヤは、咳払いを一つして、言葉を続けた。
「とりあえず、監督役に届け出てこないとね」
「――アイツの元に行くのかい?」眉をひそませて、バゼットが問うた。「危険じゃないか? キミらに話したように、あの男は――」
「承知の上での行動よ、バゼット」
その危険性を説くバゼットに、だが、イリヤは断固とした口調で答えた。
「ここで、下手に警戒して見せれば、こちらが事情を知っていることを悟られていらぬ用心をされかねない。それよりも、何も知らずに向こうの掌の上で弄ばれているフリをしていれば、隙の一つも見せてくれるかも知れないでしょう?」
「確かに、な」
イリヤの説明に、バゼットは頷いてみせた。だが、それでも念を押すように注意することを止められなかった。
「だが、気をつけたまえよ? あの男は――」
「判ってるわ」それだけ言うと、イリヤは炬燵から出て立ち上がる。「さて、行ってくるわ。そう遅くはならないと思うけど」
「あいあい、いってらっしゃいー……いたたたたたたた!?」
炬燵で丸くなったままひらひらと手を振りながら暢気に言う詩音に、イリヤは無言でそのこめかみにウメボシをかました。地味に痛そうだ、とそれを見た鐘は思った。
「あ・な・た・も・い・く・の・よっ!」
「うう、痛い。いや、ほら、家を空けちゃったらバゼットさんと鐘の二人きりになるじゃない? またあの青助がきたら危ないから私はここで大人しくはじめてのおるすばんと決め込もうとおもうのだけれどはいすいません冗談です冗談だからそんなに恐い顔しないで姉さん」
「マスターの貴女が来ないでどうするのよ。それに、か弱い姉に夜道を一人歩きさせるつもり?」
「ほら、そこはセイバーちんをつけるし」
それに姉さん、か弱くないし。
「詩音? 今何かとても失礼なことを考えなかった?」
「いえとんでもない」神妙な顔で首を振りつつ、だが、詩音は炬燵から出ようとしない。「でも、鐘はどうするの? それこそ、か弱い女の子がまたぞろ青助みたいなのに襲われたら――」
「一緒に連れてけばいいじゃない」
「あー、でも、ほら」
なおも愚図る詩音に、イリヤはふぅと溜息をつくと、その背後に回り、詩音の体にその身を寄せ掛ける。
「ねぇ詩音」何処か甘えたような調子の声で、イリヤは詩音の首筋に指を這わせ、言う。「あんまり愚図愚図言ってると――コキャっといくわよ? コキャっと」
「いやねぇ姉さんちょっと冗談言ってみただけよさぁ行きましょうか!!」すっくと立ち上がる詩音の背には冷汗がだらだらと流れていたとかいないとか。「そういうわけだから鐘、ちょっと付き合ってもらえるかなー? ごめんね? もう眠いでしょう?」
「構わんさ」
イリヤと詩音の漫才を見ていた鐘は、くすりと笑って立ち上がった。
「バゼットさんはどーしますかー?」
「いや、私は留守番しているよ」テレビのリモコンを手繰り寄せながら、バゼットは答えた。「彼には、私がここにいると気付かれていないはずだからね。ここでキミらと行動をともにしては意味が無い」
「――見たい番組があるから、なんてことはありませんよね?」
びくりと、リモコンに延びていた手が止まった。
「詩音くん。キミは私がそんな不真面目な人間に見えるとでもいうのかね?」
「すいません、そんなくつろいだ姿勢で言われても説得力皆無なので黙ってついてきてください。たしか、向こうの箪笥に切嗣の使ってたフード付きのコートがあるはずですから、それを着て。あと、はい、魔力殺しのアミュレット。これでバレないと思いマス。なんなら仮装用の鼻眼鏡もかしてあげますが?」
「――判ったよ」
有無をいわさぬ調子の詩音に、降参だ、とばかりに両手をあげたバゼットも炬燵から出て立ち上がった。名残惜しそうにテレビを見ながら、言われたとおりコートを取りに向かう彼女の姿が、外出を渋った真の理由を教えている。
「あーセイバー。貴女、幽体には?」
「キリツグから聞いているのではないのですか?」
質問に質問で返したセイバーに、あ、やっぱり? と詩音は腕組みした。
「むー、なんぼなんでも鎧姿で出歩くのは不味いよねぇ。職質とかされたら笑うに笑えないし」
むむぅ、と唸る詩音に、何時の間にか手に何かを持ったイリヤが近付く。
「これを着せればオッケーよ」イリヤが手渡したのは、猫耳フードつきの丈の長いコートだった。「こんなこともあろうかと駅前のデパートで買っておいたのよ」
「イリヤ――貴女は騎士の誇りをなんだと思っているのです」
詩音が広げてみせたコートのファンシーさ加減に、セイバーは肩を震わせて抗議する。だが、そんなセイバーをイリヤはふふんとせせら笑う。イリヤは腕組みして言った。
「あらセイバー? 貴女はマスターの言うことが聞けなくて?」
「イリヤ、貴女はマスターの姉であって、マスターでは――」
「うん、これ着て行こうかセイバー」
「なんですと――!?」
そういうことになった。
教会へと続く道を、奇妙な一団が口数少なく歩いていた。女ばかり五人のその一団は、いうまでもなく聖杯戦争の監督役にマスターになったことを登録しに行く衛宮詩音とその一党である。粒ぞろいの美女、あるいは美少女ばかりで構成されたその一団で一際目を引くのは、
「いやぁ、存外似合うもんだねぇ」
自分のマスターからコスプレ紛いの格好をさせられたサーヴァント、セイバーであった。律儀に被った猫耳フードが、能天気なマスターの発言に、まるで怒りを堪えるかのようにぴくぴくと震えているのはどういう仕組みなのか。あと、尻尾と肉球付き手袋まで供えているコートはどちらかというと着ぐるみだ。
「どう? セイバー、ここらでひとつ、『うにゃ〜ん♪』と、ポーズの一つでも決めてみない?」
「しません」そいつは残念、と肩を落とす詩音に、セイバーは盛大な溜息をついた。「詩音。イリヤもそうですが、貴女たちは一体何を考えているのですか。どこの世界に第一級の使い魔であるサーヴァントに珍奇な格好をさせて妙なポーズをとらせる魔術師がいるのです。それともあれですか今の世の魔術師というのはあの老人に負けず劣らずの変人ばかりなのですかそうなのですね考えてみればキリツグもたまに私に妙な格好をさせて無表情で喜んでいましたしきっと今の世の魔術師は変態ばかりに違いありません」
「無駄よ、セイバー」セイバーの慨嘆口調の言葉に、イリヤは笑いながら言った。「その子はフルタイムで頭のネジがゆるゆるになっているんだもの。早く慣れないと後がつらいわよ?」
「というか詩音くんがオカシイのは認めるのにやぶさかではないが、変態の魔術師には私も入っているのかね? もしそうだとしたら酷く心外なのだが」
「その、なんだ、セイバーさん。詩音はボケキャラだがそれなりにいいとこがないわけでもないぞ? 作るご飯は美味しいし、お茶を淹れるのも上手いし――あとは、作るご飯は美味しいし」
「よーしみんなそれフォローになってないって気付いてる? ねぇ気付いてる? ――泣くよ?」
「事実だから仕方ない「だろう」「と思いますが」「と思うな」でしょうに」
「ツッコミ四重奏――ッッ!?」
そんな暢気で愉快な会話をしていると、何時の間にかだらだらとした坂を登りきり、一行はかなりの規模を誇る教会へと辿り付いた。遠くはなれた新都の幽かなネオンの明かりと、月明かりをうけて夜の闇に浮かび上がる神の家は、だが、神聖というよりもどこか不気味な雰囲気を漂わせてそこに佇んでいた。
「けったくそ悪くなる場所ねー。いろんな意味で」
威圧感さえ感じられる佇まいに、詩音は胸を悪くしたような表情で吐き捨てるように呟いた。そんな妹の様子に、イリヤは複雑な感情をこめた苦笑を浮かべる。
「まぁ、詩音にしてみればそうでしょうね」言って、イリヤは肩を竦ませた。「じゃ、いってらっしゃい。私たちは外で待ってるから――と、セイバー、貴女はどうする?」
「私もここで待ちます」
「うえ!? ちょ、ちょっと私一人で行くの!? そりゃ鐘やバゼットさんは判らなくも無いし、セイバーも情報を与えないっていう点では――」
「いってらっしゃい」
「あの、おねーさま?」
「いってらっしゃい」
「あのー」
「いってらっしゃい」
「えっと」
「いってらっしゃい」
「――いってきますぅ」
無言のプレッシャーに負けた詩音は、さめざめと嘘泣きながら一行から離れて教会に近付き、物言わず佇む重厚な扉を開いてその中へと消えていった。
「こんばんはー誰かいますかー」
無人の礼拝堂の醸し出す雰囲気ばかりに気圧されたというわけでもなく、詩音はおそるおそるといった様子であたりを窺いながら、静けさばかりがその場を支配する礼拝堂を進んでいく。
「いないんだったら帰りますよー帰っちゃいますよー? つーか長居したくないんで出てこなくてもおっけぇですよーむしろ出てくんなこんちきしょー」
「夜分遅くに訪れた割には随分な言い草だな」
何処から現れたのか、好き勝手放題言う詩音に、がたいの良い神父が無表情に告げた。そんな神父に詩音は、
「出たなショッカー!?」
「――誰がショッカーなのだね」眉をしかめて、神父は静かにつっこんだ。「さて、見たところ犯した罪の懺悔に訪れたというわけでもなさそうだが。この神の家にどのような用件かね?」
「そうね。聖杯戦争のマスター登録なんてどうかしら? ミスタ・言峰?」
てめぇ知ってて何ぬかしてけつかるこのどぐされ坊主がっ!! とツッコミたいのを必死に我慢して詩音は言った。ちなみに、我慢した理由は姉の折檻が恐いから。
「ほう」がたいの良い神父――言峰は眉をわずかにあげて言う。「なるほど、キミが七人目というわけか。名を聞かせてもらっていいだろうか、マスターの少女よ」
「詩音」てめぇ知ってて以下略、というツッコミを我慢しながら、詩音は答えた。「衛宮詩音」
「――ほう!」
詩音の答えに、言峰の無表情に彩られていた顔面に、誰が見てもわかる愉悦の色が浮かぶ。うっわー、あの赤いのの笑い方も癇に障るけど、このオッサンの笑い方はそれ以上だわねー、と詩音は内心でげっそりする。絶対性格歪んでるわ、このオッサン。
「どうかしたのかしら? ミスタ・言峰」
「いや、なんでもない」くつくつと笑いながら言峰は答えた。「ただ縁は異なもの、という格言を思い出しただけだ。さて、詩音といったな? 聖杯戦争についての説明は――」
「いらない」
「――ならば聖杯戦争中に、」
「しらない」
「――サーヴァン」
「きかない」
「――キミは何か私に恨みでもあるのか。私に私の務めを、」
「させない」
礼拝堂に、天使が舞い降りた。寒々とした沈黙が二人きりの礼拝堂を支配する。
「……ならば行くが良い衛宮詩音」沈黙を破ったのは言峰だった。「キミをマスターと認めよう。この瞬間、今回の聖杯戦争は受理された。――これより、マスターが残り一人になるまで、この街での魔術戦を許可する。各々が――」
言峰の口上をみなまで聞かずに、詩音は彼に背を向けてさっさと礼拝堂から出て行った。一人残された言峰は、
「――むぅ」
唸っていた。
「マスターの登録、してきたよー」
だから帰って寝よう明日は日曜だから腐るほど寝ようむしろ一生寝て過ごそう、と駄目なことをいう詩音を、四人は生暖かく迎えた。特に、イリヤの彼女をみる眼差しは生暖かすぎる。
「ちゃんとしてきた? ボロは出してない?」
「…………ダイジョウブダトオモウヨー?」
「どうしてカタカナ棒読み発音の上に疑問系なのか物凄く気になるけど」はぁ、と溜息をついてイリヤは言った。「とりあえず、夜も遅いし、詩音の言い分じゃないけど早く帰って寝ましょう」
「そーいやぁ、鐘は明日部活とかあるのん?」
坂道を下りながら、詩音は鐘に問い掛ける。
「あるにはあるが」鐘は困ったように答えた。「足のほうが完治していないからな。どちらにしても参加は――待て、詩音のせいではないのだからそんな顔をするな」
「だって」
「詩音、またへし折られ――」
「すいませんごめんなさいもういいませんからかんべんしてくださいいたいのはいやー」
重くなりかけた場の空気が、軽くなる。イリヤにしても、本気で折るつもりはない。ただ、またぞろ妹の悪い癖が出たのでからかっただけなのだが、その効果のほどは覿面であった。そして、笑いに包まれた一行が坂を下りきったその瞬間、
「おはなしは――」
「――終わりましたか?」
二つの感情を感じさせぬ声があたりに響いた。はっとなった全員が声の方に身構えると、そこには二つの白い影と、
「――なんだ、あのバケモノは!?」
一つの、黒き死の具現がそこに存在していた。誰もが――そう、最強の手札であるはずのセイバーですら、その存在に言い表しようのない畏れを抱いた。それは、正しく死の具現であった。黒々とした巨躯は、巌を切り出したような強靭な筋肉で構成され、爛々と輝く瞳に灯るのは、ありとあらゆる敵を粉砕しようとする狂気にも似た色のみ。
ただ、詩音とイリヤはその黒い死神よりも、二つの白い影――無表情な女性たちに畏れを抱いているようだった。
「むかえにきた」
「我らの元にお戻りくださいませ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
二人の感情を感じさせぬ声に、詩音とイリヤの体が稲妻に打たれたようにびくりとし、
「セイバー、
「承知!!」
それがこの夜二度目となる鋼鉄の暴風の開始、その号砲となった。
初手から全開で斬り付けたセイバーの不可視の斬撃は、だが、黒き死神の手にした岩剣で容易く受け止められた。渾身の一撃を易々と受け止められたセイバーは、その小さな顔に驚きの表情を浮かべながら、だが、すぐさま第二撃を放つ。横薙ぎに放たれた剣閃は、やはり岩剣というよりも岩そのものと表現したほうが適切な巨大な武器にあっさりと遮られる。
「セイバーの攻撃が――」
通用していない。その場にいたものは、誰もが信じられぬといった表情を浮かべていた。それはそうだろう。聖杯戦争において最良のサーヴァントであるセイバー、それも切嗣が残した最強のセイバーの攻撃がまったくといっていいほどに通じていないのだ。驚いて当然といえる。
「無駄です」
「わたしたちのヘラクレスにそんなこうげきは、むだ」
感情の失せた、だが、どこか謳うような響きさえある声に反応したのはバゼットだった。
「ヘラクレスだと!? ギリシャ神話最大最強の大英雄だというのか、コイツは――ッッ!?」
「ヘラクレスだかヘルスクラブだか知らないけど――」何かに怯える自分を叱咤するような声で詩音は叫んだ。「やっちゃいなさいセイバー!! 手加減なんかしてるんじゃないの!!」
「判っています!!」
無論、セイバーは手加減などしていない。彼女の積んできた無数の戦闘経験と、彼女の本能が、この敵を前に彼女にそんな真似をさせなかった。彼女は、今の彼女に可能な全力攻撃で相手に向かっている。だが、
「裏切り者の衛宮切嗣に私たちが与えたアーサー王。確かにその力は強大です」
「だけど、ヘラクレスにはかてない」
二人の声が神託のように戦場と化した路地に響く。そう、セイバーの全力は、大英雄ヘラクレスに届いていない。小山のように聳え立つヘラクレスは、セイバーの猛攻を前に、一歩も退いていなかった。そして、
「――――ッッ!?」
今まで受け手にまわっていたヘラクレスが、反撃に転じた。無造作に放たれた岩剣の一撃は、だが、それだけで必殺の一撃であった。圧倒的な暴力が、セイバー目掛けて振り下ろされる。その一撃を、セイバーは受けようとは思わなかった。彼女は、本能的にその一撃を避けた。空振りとなった一撃は、アスファルトに炸裂し、その瞬間、まるで砲弾が炸裂したようにアスファルトが爆ぜた。榴弾のような効果を発揮した一撃に、セイバーが一瞬怯む。
「■■■■■■■――――!!」
その一瞬の隙をついて、ヘラクレスが魁偉な顔で獅子吼すると、その巨躯に似合わぬ素早い動きで吶喊する。突撃と同時に繰り出されるは大気を強引に切り裂くような暴力的な横薙ぎの一撃。飛び散るアスファルトにほんの一瞬だけ気を取られたセイバーは、それをかわす事が出来なかった。辛うじて不可視の剣で受け止め――
「くぅ――――ッッ!?」
弾き飛ばされた。空中を飛ぶセイバーの姿に、一同はあっけにとられたような表情を浮かべる。そんな詩音たちに勝ち誇ったような白い女たちの声が耳に届く。
「ていこうは、むだ」
「大人しく、イリヤスフィールを私たちに返しなさい、裏切り者の娘――衛宮詩音。そうすれば、苦しませずに殺してあげます。それは、私たちの物なのです」
死刑宣告のような言葉に答えたのは、イリヤだった。
「ふざけないでもらえるかしら、
「ねえ、さん」
「貴女たちなんか知らないわ。いいこと? それに私はものなんかじゃない。あんまり面白いこと言ってると――」イリヤは、キっと白い女たちを睨み付けた。「――泣かすわよ?」
大見得を切ったイリヤに、白い女たちは冷たい一瞥を、詩音は涙に滲んだ視線をむける。女たちが口を開いた。
「イリヤスフィールにはおしおきがひつよう」
「そのようですね」溜息をつきながら、言う。「無傷で確保しようと思っていましたが――多少、痛い目をみてもらう必要があるようです。とりあえずは、裏切り者の娘から殺すことにしましょう」
「させん!!」
叫ぶのは、何時の間にか戦線復帰したセイバーだった。けしてダメージを負っていないというわけではないのだが、それを感じさせない気迫でヘラクレスに斬りかかる。再び始まる剣閃の嵐。だが、そんなセイバーの嵐のような猛攻も、大ヘラクレスの前では涼風のようなものだった。その様子に、詩音がぎりっ、と唇を噛む。
「セイバー!! 私は手加減なしと言ったはずよ!!」声の限りに詩音は叫ぶ。「構わないわ、貴女の
その叫びに、セイバーは無言で頷き、宝具使用の溜めを作るために距離をとろうとし、
「させません」
「させない」
ヘラクレスの猛攻に晒された。巌のようなヘラクレスの巨躯から繰り出される、当れば死に至る必死の一撃一撃を、セイバーは全力で凌ぎ、凌ぎ、凌ぐ。セイバーは圧倒的な暴力の嵐に敢然と立ち向かい、それを凌ぐ。だがそこに宝具展開の余裕は、ない。
(このままじゃ――)
勝てない。詩音は自分たちの必敗をすぐそこに感じた。セイバーは可能な限り善戦している。彼女がもし並みのサーヴァントであれば、自分はすでに肉片へと姿を変え、姉は奪われているに違いない。今、こうして焦りを感じていられるのは、セイバーが父の遺したセイバーだからこそ、だ。だが、このままでは敗れるのは目に見えている。その必敗のシナリオを回避するには――
「姉さん」
詩音は決断した。
「何、詩音?」こちらも焦りをその整った顔に浮かべているイリヤは妹に尋ね、そこに浮かぶ決意の色を読み取った。「――使うの?」
「使うわ」
「いいの? 貴女は――」
「いいのよ、姉さん」詩音は悲しげな微笑を浮かべて、言う。「私は、私。そうでしょう? 私は姉さんの妹。切嗣の娘。姉さんが私を妹だと思っていてくれれば、私は私でいられる。だったら、我侭なんて言ってられないわ」
翻しようの無い決意を込めた妹に、イリヤはしばし俯き、唇を噛み沈黙し――覚悟をきめた。
「いいわ、詩音。ちゃんと戻ってきなさいよ?」
言って、イリヤは自分の唇を噛み切ると、妹の顔を引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。
「――――」
剣を振るっているセイバーとヘラクレス以外の全員が、場違いな二人の行為に動きを止めた。剣戟の響きをBGMに、二人はその場の視線を一身に集め、口付けを交わす。舌と舌の交わりを意味する水音が奇妙なほど大きく響き、
「――術式拘束解除。解除権限者、衛宮イリヤの名において、衛宮詩音の拘束を解除します」
「――確認。解除権限者、衛宮イリヤによる術式拘束解除を承認」
長い、呼吸を忘れるような長い口付けによる酸欠だけを理由としない紅潮に頬を染めた二人の文言が終わった瞬間、
「これは――!?」
詩音の体から、魔力の奔流が溢れ出た。それまでの衛宮詩音が嘘のような圧倒的な魔力の迸りに、詩音とイリヤを除いた魔術師たちは言葉を失う。そんな奇妙な沈黙の中、その原因である詩音が眼鏡の向こうで鐘とバゼットに悲しげに微笑んだ。
「わたしのこと、きらいにならないでね」
小さくそう呟くと、詩音が爆ぜたようにヘラクレス目掛けて突進した。それはまるでサーヴァントのような身体能力の発露であった。詩音は叫ぶ。
「セイバー! 合わせなさい!!」
「承知!!」
マスターの変貌に驚きつつも、セイバーは答えた。何時の間にか出した黒く捻れた長剣を振りかぶる詩音の動きに合わせる。そして、巌のようなヘラクレスの不動が崩れた。見るものをして、人外の動きとしか思えない動きでヘラクレスを翻弄する詩音と、彼女が作り出した隙をついてヘラクレスを痛撃するセイバー。さしものヘラクレスも破壊の嵐のような猛攻にじりじりと後退する。
「イリヤくん」バゼットが、そんな戦いを眺めながら、尋ねた。「あれは、なんだ」
「――――」
イリヤは答えなかった。ただ、悲しげな顔で悪鬼羅刹のごとく剣を振るう妹を見ていた。
「イリヤくん、詩音くんにいったい何をした」
バゼットの問いが再び響く。イリヤは、妹の姿から目を離さないまま、静かに言った。
「――いつか、教えるわ」言ってイリヤは、バゼットと、言葉を失っている鐘のほうを見た。「だから。お願いだから、私の妹を責めないで。私の妹を嫌わないで」
「こ、の、おぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!」
何度目の斬撃だったか。詩音の一撃がヘラクレスの頭部を砕き、セイバーの突きがその心臓を穿った。ギリシャ神話最大最強の英雄が、地に伏した。その崩れ落ちる様を見届けた詩音が、何かに苦しむように体を震わせつつ、爛々と輝く赤い瞳で二人の白い女に言う。
「――私たちの、勝ちよ」
「おどろいた」
「まさか、ヘラクレスを殺してみせるとは。――貴女はバケモノですか」
その言葉に、詩音が顔を歪める。だが、詩音はそんな表情を振り払うように言った。
「さ、帰りなさい。帰って連中に言いなさい。姉さんはわたさ――」
「ですが、ヘラクレスは終わったわけではありませんよ」
「たてヘラクレス」
「――――ッッ!?」
その言葉に二人からヘラクレスに視線を戻した詩音は言葉を失った。ヘラクレスが、起立していた。砕かれた頭部を、穿たれた心臓を猛然と再生させながら、その威容を聳え立たせていた。
「――どっちがバケモノなのよ」
再び剣を構える詩音とセイバー。だが、その彼女たちに二人の女から声がなげかけられる。
「でも、びっくりした。ほめてあげる」
「今日はここまでとしましょう。一回とはいえ、ヘラクレスを殺してみせた貴女たちを相手にするには、いろいろと準備がいるようです」
そう言うや否や、二人の姿が霞んでいく。
「だが、必ずイリヤスフィールは返していただきます」
「くびをあらってまってろ」
気が付けば、二人の女はおろか、ヘラクレスの巨躯すらその場から消え失せていた。あたりを覆っていた濃厚な死の気配が、あっさりと霧散していく。その様子に、詩音たちの中に張り詰めていた緊張感も消えていく。残された者たちの視線は、ギリシャ神話の大英雄を退けた立役者に注がれた。
視線をうけた詩音は、眼鏡の奥の瞳を困ったように笑わせ、言った。
「さ、おうちに帰りましょう?」
そして、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
「詩音!!」「詩音!?」「詩音くん!!」「マスター!?」
こうして、長い始まりの夜は終わりを告げた。そして、この夜から少女たちの運命は廻り始める。
級友の家を捜し求めて東奔西走した冬木のセカンドオーナーが、爆発的な魔力のぶつかり合いに気付いて駆けつけたときには、誰もその場にいなかったことを余談として記しておく。
「苦しいでしょう詩音?」
「ねえ、さん……わた、し――」
「いいのよ。いいの。判っているから。詩音は悪くなんてないから。ほら、これを――」
「ごめ、ん、なさ、い、わたし、わた、し――」
「いいのよ、いいの。気にしないで。私は貴女を責めたりなんかしないから。だから泣かないで――」
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