守らなくては――

 護らなくてはならない――、そう思った。

 けして自分のためではなく。

 けして自分の誇りのためではなく。

 けして自分の名誉のためでもなく。

 そんなちっぽけなもののためではなく、ただ、護らなくてはならない――、そう、思った。

 何故ならば、

 何故ならば。



Fate/stay night

 〜運命の縛鎖〜



第六夜・後

 その日の衛宮邸の晩餐は、ひどく賑やかなものになった。詩音たちには良く判らない理由で気を悪くした藤村大河という名の横暴が服をきて歩いている存在の機嫌をとるために、普段よりもかなり豪勢な料理が食卓を賑わした結果、約二名ほどその場に存在していた欠食淑女たちがはっちゃけたせいだ。

 唸る箸、交わされるフォーク、乱れ飛ぶスプーン。だが、おそるべきかはたまた頭を悩ませるべきか。どれだけ食卓が騒がしくなろうと、皿に供された料理は、たとえそれが米の一粒であろうと食卓を囲む者たちの胃袋以外の場所に落ちることはなかった。

「――昼食を抜かれたときはどうなるかと思ったが」

 居間を支配していた喧騒が――というか、喧騒を生み出していた元凶が去ったことで落ち着きを取り戻した、夕餉を終えたあとの衛宮邸の居間で、食後の一服を楽しんでいるバゼットが、どこか遠い目をしながら言った。

「今日の夕食を楽しむための試練だと思えば、辛くはないな」

 英国人、あるいは英国で長い時間を過ごした者に特有の英国的間接表現でしっちゃかめっちゃかにされたあとで無視されたあげく食事を忘れられていたことを、バゼットはそう表現した。むろん、内心では、二度と衛宮姉妹の前で身長と胸囲の話題は口にすまい、心に固く誓っている。姉妹に働かれた狼藉を思い出したバゼットは思った。ええい、嫁にいけなくなったらどう責任をとってくれるのだ、この娘らは。

「あら」バゼットと同じように香ばしい芳香を漂わせるほうじ茶を楽しんでいたイリヤが、意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。「聞いた? 詩音。バゼットは夕食を美味しく食べるためなら朝とお昼を抜くぐらいなんでもないんですって。それなら、バゼットが夕食をより一層楽しめるように、私たちも協力してあげなくちゃね」

 バゼット、明日から朝昼抜き、とイリヤが異端尋問官にも似た恐ろしげな爽やかさで言うと、普段ならばそんな無茶を言う姉を宥めすかして諌める側に回る詩音も、似た様な笑みを浮かべて姉に同意を示した。

「そうね。そのとおりだわ、姉さん。バゼットさんはお客様ですもの。衛宮の家をあずかる立場として、お客様には存分に楽しんでもらえるように配慮しないとね」

 よほど、あの発言が腹に据えかねていたらしい姉妹は、澄み渡る快晴の青空を思わせる爽やかな笑顔を見せながらバゼットを真綿でネックハンギング。そんな銀髪の小悪魔×2に、バゼットは心底情けない顔と声で声を漏らした。

「……頼むから、そう虐めないでもらえるかな」

 正直、すまなかった、と誇りもなにもあったもんじゃないバゼットの様子に、姉妹はころころと鈴の音のような笑い声をあげた。バゼットの弱り果てた様子と、バゼットにそうさせる衛宮姉妹の様子に、昼間、バゼットを見捨てた鐘とセイバーは、自分たちも気をつけようと思っていた。特に、絶妙としか表現しようの無い詩音の料理の虜となったセイバーは、ことさら強くそう思っている。

「ところで、シオン」梅昆布茶の注がれた湯呑みを傾けながら、セイバーが、なおもバゼットを苛めて憂さを晴らしている自分のマスターに声をかけた。内心で、とばっちりがこないかビクビクしている。「今日はこれから戦闘哨戒(みまわり)に?」

「あー」番茶の入った湯呑みを片手にバゼットを苛めて楽しんでいた詩音は、その楽しい遊びを姉一人に任せると、湯呑みに残っていた番茶を少量口に含んでセイバーに向き直った。「そうね、このままおうちに篭って青いのを待つっていうのも手だけど――いくらなんでも消極的に過ぎるしね」

 セイバーちんは性に合わないでしょう? と詩音は悪戯っぽく笑いながら言った。

「出かけるのか?」

 玉露の深い味わいを楽しんでいた鐘が、小首を傾げながらたずねた。目には、少しばかり詩音を案ずる色が浮かんでいる。彼女の脳裏には、昨夜、戦いを終えると同時に崩れ落ちるようにして倒れ、昏睡状態に陥った詩音の悲痛な姿が浮かんでいた。

「だいじょーぶ」詩音はそんな鐘に苦笑を浮かべながら、彼女を安心させるように言った。「まーかせて。昨日みたいなことにはそうそうならないから、ね?」


「むぅぅぅぅんりばぁぁぁぁぁぁぁ〜っと」

 夜の新都に、やたらとこぶしの効いたムーンリバーが響く。雲の切れ間から、ジンライムの月が顔を見せる裏通りで、気持ち良さそうに唸っているのは小柄な銀髪の眼鏡少女、詩音だった。そんな詩音の様子を無視するように、あたりを警戒しながら後をついていくのは、いうまでもなく彼女のサーヴァントであるセイバーだ。昨夜とは違い、甲冑の上に纏っているのは猫耳肉球付き手袋付属のコートではなく、バゼットが着ていた普通のフード付きコートだった。バゼットよりも小柄なセイバーは、そのコートを、コートに着られるようにして着ているため、いささか不恰好に見える。が、本人は昨日のような羞恥プレイを行うよりはマシだと考えていた。もちろん、詩音は(セイバーが猫耳ルックを着用しないことを)ひどく残念がっていたが、令呪を代償に寄越せと言われては無理強いできない。

 そうした憂さを晴らすためか、イリヤや他の面子を置いて門をくぐってからこちら、詩音は一寸と間を空けずになにかしら歌を唸っている。曲目は、シナトラの名曲、フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンに始まって、本邦の唱歌である月の砂漠、とジャンルはバラバラだが、どれも月を題材にした曲ばかり。どうやら、今宵、空に浮かぶ満月に近い月をテーマに選曲しているらしい。

「セイバーちんは何か歌わないのん?」

 ムーンリバーをフルコーラス歌い切ったところで、詩音はようやく自分の従僕に声をかけた。もっとも、声をかけられたセイバーにしてみれば、それが他のサーヴァントの気配はどうの、といった戦闘に関することでないのはどうしたものか、と頭を抱えたいところだった。

「シオン」

 臣下の勤めには、主に耳の痛い諌言を言うことも含まれている――そう考えるセイバーは、自らの感じた事を率直に口にした。

「もう少し真面目には出来ないものですか?」

「真面目、なんだけど?」

 いかにも心外だと言わんばかりの顔で答えた詩音に、セイバーは胡乱そうな顔で言う。

「そうですか?」足を止め、被っていたフードをおろしたセイバーは、眼鏡のむこうにある詩音の双眸を覗き込むようにしてたずねた。どこか、声に挑むような調子が含まれている。「それでしたら、私に何か他にたずねることがあるのでは?」

「例えば、敵の気配の有無――とかかな?」

 まるで姉のイリヤのような少女に笑いかける猫さながらの表情でいう詩音に、セイバーは、む、と声を詰まらせた。頷く。

「判っているのでしたら――」

「聞いても意味がないでしょう?」

 言い募ろうとするセイバーに、詩音はあっけらかんとした様子で言い放った。そんな彼女の言い草にセイバーがあっけにとられるのにもかまわず、詩音は言葉を続けた。

「だって、セイバーが敵の気配を探知できてたら、何を置いても私に報告するでしょ? そのセイバーが何も言ってこない――ということは、周囲に敵は存在しないということ。違って?」

「それはそうですが」理路整然とした詩音の説明に驚きつつ、セイバーは、だが、その言い分が正しいと判っていてなお何かを言わずにいられなかった。性分なのだろう。「――ええ、たしかに。シオン、貴女の言っていることは正しい。ですが、何故、そこまで?」

 自分を信頼しているのか? そう問うセイバーに、詩音は心底不思議そうな表情を浮かべて答えた。

「んー? 主人が従僕を信頼しないでどうするっていうのさ? ま、たとえ期間限定の仮初の主従でもね。でも、自分の背中をあずける相手を信頼しないでどーやって戦えるのん?」

 やはり、この少女は真っ当な魔術師ではない。

 セイバーは、そう確信した。自分と詩音とは、聖杯戦争のシステムを介在した仮初の関係でしかない。自分に今のところそのつもりは毛頭ないが、万が一にでも他のサーヴァントすべてに勝利をおさめる以前に令呪を使い切ってしまえば、途端に自分に牙を剥きかねない――マスターとサーヴァントとの関係というのは、そうした危ういものだ。むろん、それが判っているからこそマスターとなる魔術師はサーヴァントと必要以上に関係しようとはしない。セイバーが前回仕えた詩音の義父である切嗣が、その期間中、碌に彼女と口をきかなかったのがいい例だ(切嗣がセイバーと口をきかなかったのはそればかりが原因ではないが)。

 だが、詩音はあっさりと自分を信頼していると言った。むしろ、それが普通なんじゃないのか、と言わんばかりの口ぶりだ。

 やはり、この少女は真っ当な魔術師ではない。

 セイバーは、そう確信し――同時に、喜びに打ち震えていた。

 王であると同時に、誇り高い一人の騎士でもあるセイバーにとって、自分が一時とはいえ剣を捧げた主から、そこまでの信頼を寄せられて嬉しくないはずがない。

(確かに――)

 セイバーは思った。たしかに、この少女は真っ当な魔術師ではないかも知れない。また、その姉ともどもどこか奇天烈な一面があることも事実だ。短い付き合いではあるが、正直勘弁して欲しいと思ったこともある。

(ですが――)

 それがどうしたというのだ。自分に全幅の信頼をおく主に、全力で仕えずに、その期待に応えずになんの騎士か、英霊か。

 セイバーは確信した。この少女こそ、私の主。私がその全身全霊をもって剣を捧げ剣を振るうべき真の主。

 いつしか、セイバーの形の良い唇には、我知らず笑みが浮かんでいた。

 一方で、セイバーに強い感銘を覚えさせていた詩音が何を考えていたかというと、

(うわっ!? さっきまで妙な顔してるかと思ってたらいきなりニヤニヤしはじめた!! キモッ!? ま、まさか人気がないのをいいことに私に妙なことをしようと企んでいるのでわッッ!? ああ、姉さんあなたの妹の貞操がライブでピンチです!?)

 ――セイバーが聞いたら折角立てかけたフラグがえらい勢いで倒れていきそうなものだった。あとフラグっていうな。

 それはともかく、自分がこの聖杯戦争というイヴェントにおいて果たすべき何かを見つけて期限が良いセイバーと、そんなセイバーから(まったく見当違いの誤解によって)そっと距離をとる詩音は、今のところ、まったく平穏な時間を過ごしていた。

 たしかに、多少雲量こそは多いものの――あるいは、そうであるからこそ雲の切れ目から覗く月は喩えようもなく美しい。また、その細い銀糸のような月光が差し込む裏通りには夜が遅いことも手伝って人気が少なく、一種ロマンチックな雰囲気さえ感じさせる。睦み合う男女が時間を過ごすシチュエーションとしては絶好のロケーションであった。問題は、詩音、セイバーともに女性であるということだが。

 もっとも、平和な時間、あるいは平穏な時間というものは長続きしないものと相場が決まっている。この日の夜も、その例外ではない。

 おそらくは、少し歩いた場所――今だ人気(ひとけ)の絶えぬ表通り――の雑踏に紛れて聞こえないはずのもの。その聞こえないはずのものを、だが、詩音とセイバーはその耳にとらえていた。どちらからともなく顔を見合わせる。

「どうしますか、シオン?」

「そうね」詩音は、まったく迷った様子を見せずに言った。「聖杯戦争には関係ないかも知れないけど、行かなかったら行かなかったで寝覚めが悪そうだわ」

 なんならセイバーは来なくていいわよ? と言う詩音に、セイバーは笑みを浮かべて応えた。

「行きましょう。そう遠くはないはずです」

 是非も無し――と言わんばかりの態度で応えた従僕に、詩音は笑みを浮かべて軽く頷いてみせる。

 直後、二人は一陣の風と化す。裏通りには、ただ差し込む月光ばかりが残されるのみとなった。二人がその耳で聞いたものは、若い女性の絹を裂くような悲鳴だった。


 聖杯戦争に参加している冬木のセカンドオーナー、遠坂凛女史は、さまざまな要因がいくつも重なり合った結果、まったくの不機嫌であった。そして、それを隠そうともしていない。普段であれば、軍集団単位の猫を被っていかにも人当たりの良い如才ない才女という風情を装うのだが、あたりに誰もいないとあって、そうした努力を払おうとすらしていない。

 不機嫌の原因は、いくつもあった。

 自分の凡ミスによって、狙いのセイバーではなく、どうにも口さがない、皮肉屋のアーチャーを引き当ててしまったこと(もっとも、この件に関しては自分の内心においてそれなりに折り合いがついた)。自分のテリトリーである穂群原学園に、えげつないとしか言い表しようの無い外道な結界が張られていたこと。さして仲が良いというわけではないが、こちら側の面倒に巻き込んでしまった(彼女自身に非があるわけではないが)同級生の保護に失敗したこと。そして、

「凛、そう気を怒らせていては上手く行くものも上手く行かないぞ」

 自分を抱えて新都の夜空を駆ける赤い弓兵が、諌言を口にした。ただの諌言であれば、凛も素直に聞き入れるが、彼女は理解していた。この皮肉屋の弓兵が、言外に、「ただでさえキミはうっかりでミスをしてしまうのだからな」と言っているのを。だからこそ、凛の応対も剣呑な雰囲気を含んだものとなる。

「判ってるわよ。無駄口叩いてる暇があったら、さっさとキャスターを探し出しなさい」

 そんな彼女の言葉に、(器用にも)凛を抱えたまま肩を竦めてみせて、アーチャーは返事にかえた。むろん、言われるまでもなく、キャスターの残滓を手繰るべく努力は払っている。ただし、あまり上手くはいっていない。

 今宵、巡回先で発見した数十名にのぼる無残な人々の変わり果てた姿。あの、鉄錆びた異臭に包まれた光景。遠坂凛という少女は同年代の少女たちからすれば、魔術師ということだけあって、ほんの数刻前に目にしたような光景に、随分と耐性をもっている。

 だが、怒りを覚えないわけにはいかなかった。自分のテリトリーで好き勝手するキャスターに、無関係な人々を巻き込むという所業に対し、義憤を覚えずにはいられなかった。

 であるからこそ、さして収穫があるとも思えないキャスター追撃にアーチャーを駆り立てている。本人も、心のどこかで、自分が無駄なことをしているという自覚は持っている。見込みのない捜索に精を出すよりも、根倉に戻って英気を養ったほうがいくらかマシだということも理解している。自分の行為が、自らの特殊な言い回しで表現するところの、『心の贅肉』そのものの行為だということも承知している。

 だが、それでもなお、キャスターを追わずにはいられなかった。遠坂凛の、魔術師と人間の在り様のさなかに存在している良識や道義心といったものが、彼女にそれを命じていた。甘いといえばそれまでなのかも知れないが、紛れもなく人間としての美質ではある。

 それが判っているから、ごりごりの合理主義者であるアーチャーも、なんのかんのといって、凛に付き従っている。この主はこれでいいのだ、と内心で納得している。むろん、口に出しはしないが。

「――――」

 ビルの外壁を蹴って宙を舞うアーチャーが微妙にその表情を変化させた。彼に抱かかえられた凛は、それをさっと読み取った。

「何か見つけたの? アーチャー」


 雲のせいか、はたまたビルの配置によるものか。その細い路地には、月明かりが差し込んでいなかった。新都のような大都市では珍しいことに、街灯も立っていないせいで、路地はかつて人がその想像力を働かせてさまざまな恐怖を喚起させた闇に包まれていた。と、いっても、一寸先すら見えないというほどの暗さではない。

「う、あ、あぁ――――」

 そんな、夜の闇に支配された路地に、明らかに女性のものと思われる声が響いた。弱弱しくはあるが、声に張りがあるから、随分と歳が若いようでもある。途切れ途切れに、その声は路地に小さく響く。熱病にでも冒されたような声には、奇妙な艶が含まれていた。声のほうに目を向ければ、そこには、路上にうずくまるようにしている二つの人影があった。

 何処かの学校の制服を纏った少女に、闇夜に溶け込むような衣服を纏った長身の女性がかぶさるようにして纏わりついている。妙な方向に想像力が働くタチの人間がそれを目にしたのであれば、二人が路上であたりはばかることなく睦み合っていると早合点したかもしれない。少女の漏らす声は、それほどに艶があり、また少女にそうした声をあげさせている女性の動きは、それほどまでに艶かしい。

 どれほどそうしていたのか。

 少女に覆い被さるようにしている女性――長い紫の髪を蛇のように蠢かせている女性の動きが、一段と激しさを増し、それにつれて少女の声が徐々に昂ぶっていき、絶頂を迎えようとした瞬間、

「ちょんわ――――――――っっ!!」

 奇妙な声が路地に響いた。同時に、黒光りする短刀が数本、紫の髪の女性に飛来する。材質によるものか、はたまたそのように塗装されているのか。黒い刀身をもつ短刀は闇夜に溶け込むようにしているため、たとえ夜の闇に慣れた目であっても、見極めるのは容易なことではない。

 だが、

「シィ――――ッッ!!」

 紫の髪の女性は、鋭い呼気を叩きつけるようにして吐き出すと、覆い被さっていた少女から飛び退くようにして離れた。直後、女性がほんの先程までいた場所を、空を切り裂いて短刀が飛び過ぎていった。

「随分と――」軽業師を思わせる動作で路面に音も無く着地した女性はゆっくりと、――だが隙の無い動作で身を起こしながら短刀の飛来した方向に告げた。「――乱暴な挨拶ですね」

「人気のない夜道で――」

 女性が顔を向けた方の闇から、浮かび上がるようにして現れた二つの人影――その小柄なほうがおどけたような口調で言った。

「女の子に悪さするようなやつにする挨拶としては、あれでも丁寧なほうだと思うのだけど?」

 小柄な人影――長い銀髪をかきあげながら言う詩音は、憎まれ口に近い軽口をたたきながらも、相手の仕草や動作から戦闘能力を推し量る。すらりとした長身には、無駄な肉は一部もついていない。それでいて、女性としての美しさを欠片も損なっていないスタイルは、奇妙な目隠しのようなマスクで覆われていてもなおそれと判る整った目鼻立ちと相まって、女性としての完成形、その一つの到達点のようだ。むろん、ただ美しいばかりではない。戦人としての詩音の視覚には、ただ立っているように見えながらも、ことがあれば即座に戦闘に移れる微妙な筋肉の緊張と弛緩の様子がはっきりと映っていた。かててくわえて、そこにいるだけで気圧されそうになる、体から迸る魔力。間違いない。詩音は断定した。この女性は――

「マスター」コートを脱ぎ去り、完全な戦闘態勢をとっているセイバーが、囁くように詩音に告げた。「間違いありません。この女性は――」

「ええ、サーヴァントよ」迷いのない口調で断言して、詩音は眉をしかめた。言葉を続ける。「今日び、あんな露出度の高いボディコン・スーツを喜んで着込んでるなんてサーヴァントとしか考えらんないわ! だいたい幾らここの冬が暖かいっていっても真冬なのよ? それをあんな無駄に露出してる服着てるなんて変態よ変態! あの全身タイツの青助といいサーヴァントってあんなのばっかなの!? 聖杯戦争って何!? 変態の大見本市か何か!?」

「いや、シオン、そうではなく――」

 アンタも魔術師なら判るやろ? といいたげな感じでセイバーが溜息混じりに口を開こうとしたが、詩音の台詞はまだ続く。

「つーか何よあのタッパ! それと胸! どいつもこいつもヒトのコンプレックスに喧嘩売ってんのかコノヤロー!?」

「待ちなさいセイバーのマスター」

 詩音の絶叫に、半ば呆れたようにしていた女性――敵サーヴァントがズビシッ! と詩音を指差して口を開く。心なしか、怒っているように見えなくもない。あと、ヒトを指差すのは失礼だからやめておけ。

「あによデカ女」

 こちらはこちらで、朝から身体的なコンプレックスを刺激されてばかりでいい加減機嫌が悪くなっている詩音が、むすっとした様子でたずねる。

「先程から聞いていれば」詩音の発言にカチンときたらしい敵サーヴァントは、今度は誰がみても判るほどに腹立たしげな態度で言った。「随分と好き勝手言ってくれるではないですか。貴女のように小さなヒトには判らないかも知れませんが、背が高いというのは女性にとって必ずしも利点となるわけでもないのですよ」

 例えばフリフリでゴスでロリな服とか着れませんし、と誰にも聞こえないように付け加える女性サーヴァント。

「この――」小さなヒト呼ばわりで、最近やたら低くなっている沸点に一瞬にして到達した詩音が、手負いの獅子よりも獰猛な表情で口を開く。「誰が小さなヒトよ、誰が。好き好んで私がちみっこい体でいると思ってんの? 私だってアンタみたくスラリと背が高くて出るとこは出て引っ込むとこは引っ込んでる体が欲しいわよ!!」

 気にしてんだからちっさいって言うな胸が薄いって言うのは超ダウト!! と夜空に獅子吼する詩音。

 果たして私はここに何をしにきたのでしょうか? いきなり敵と(アレな理由で)口論をはじめた自分のマスターの後姿を見つめていたセイバーは、大きな溜息を隠すそぶりもみせずに一つついたあとで、黄昏たように夜空を仰いだ。ビルと雲の隙間に浮かぶ月が、妙に寒々しく感じられた。セイバーは思った。もしかして、剣を捧げる相手を間違ったのでしょうか。

 と、口から泡を飛ばしながら気の抜ける内容の口論をかわしていた詩音と敵サーヴァントが、何時の間にか互いを詰ってるんだか羨んでるんだか良く判らない口撃を止めていた。互いに肩で息をしているところを見ると、疲れてしまったらしい。

「もういいでしょうか?」

 息を整える詩音に、疲れたような声でセイバーがたずねた。

「――何か言いたそうな顔ね? ああ、言わなくても良いわっていうか聞きたくない。いいわ」詩音は顔をあげ、健気な従僕に命じた。「あの鼻持ちならない女にギャフンと言わせてやんなさい!!」

 ――滅茶苦茶私憤入ってますね。セイバーは内心でそう思いつつ(もちろん、口には出さない)、不可視の剣を振りかぶり、敵サーヴァントに踊りかかった。先程までの疲れた様子など何処かに忘れたようなその勢いは、見るものに、まるで何かの鬱憤を晴らすかのようだと思わせるものがあった。

 疾風の如き速度で襲い掛かったセイバーの攻撃は、だが、

「――――」

 紙一重の差でかわされる。あの夜のバーサーカーの一撃ほどではないが、それでも相手を捉えそこなった猛烈な一撃は、アスファルトに直撃し、そこを抉り取る。路面であった場所から剣を通じて伝わってくる反動を力で捻じ伏せたセイバーは、一瞬の隙も見せずに剣を振り上げ、敵を猛追する。

 だが、捉えきれない。

 狭い路地という地理を活かしている、ということもあるのだが、なにより敵の速度が速すぎる。目にも止まらぬセイバーの剣閃を、それを上回る速度でかわし続けている。何処から取り出したのか、敵はセイバーの攻撃を回避しつつ、無骨な、鈍色に光る鎖のついた釘のような短剣でセイバーに攻撃を仕掛ける。

 無論、黙ってやられるセイバーではない。

 投擲され、けして人間に生み出すことは出来ない速度で飛来する釘剣を、巧みな剣捌きで弾き、身を護りつつ敵に迫ろうとする。しかし、敵が足を止めた隙にセイバーが一気に距離を詰めた瞬間、

「ッッ!?」

 距離を詰め、敵に剣を振りかざしたセイバーの背後から釘剣が飛来する。ただの釘剣――ほとんど魔力を感じ取れないことから宝具ではない。また、宝具であったとしてもひどくランクが低い――であれば、投擲して、命中しなければそれまでだが、この敵の釘剣の柄に繋がっている鎖が曲者だった。敵は巧みに鎖を操ることにより、釘剣というよりも、先端に硬い物が備えられた鞭として自らの武器を扱い、攻撃を繰り出していた。

(ふむん)

 寸でのところで後方から襲いかかった釘剣を回避したセイバーの戦いぶりを見ながら、詩音は敵の戦力を分析する。ランサー戦やバーサーカー戦のように自ら直接サーヴァントと対峙しようとはしない。ランサー戦はそうせざるをえなかったからそうしただけであり、バーサーカー戦は、セイバー一人で戦わせては不利だと思ったからそうしただけ。詩音のみたところ、確かにセイバーは攻めあぐねているようだが、けして不利ではない。敵サーヴァントはスピードこそたいしたものであるが、その他の能力――特に膂力などはセイバーにはとても敵わない。総合的なスペックではセイバーがはるかに上といえる。であるからこそ、詩音はセイバーに戦いを任せ、自分は状況の分析に徹している。そして、詩音がその戦いぶりを観察したところ――

(なんか)

 力を抑えてるみたいだねぇ。詩音は首を捻った。いや、抑えてるっていうよりも本来のスペックを出し切れてないっていう感じかな? 前者であれば何らかの作戦。後者だと、準備不足か、あるいは――

 そこまで考えたとき、倒れたままの少女の姿が目に入った。いままで口論したりなんだりですっかりその存在を忘れていた詩音は、慌てて保護に走る。何しろ人外の存在がぶつかりあう細い路地には、アスファルトだのコンクリートだのの破片が飛び交っている。小さなものであればいいが、大きな破片がぶつかりでもした大怪我を負いかねない。

「これじゃなんのために助けたんだか判らないねー……って、あれ?」倒れ伏す少女の傍に駆け寄った詩音は目を丸くした。「美綴さんじゃない」

 舗装が荒れ始めた路面に倒れていたのは、顔見知りの女生徒だった。詩音は、妙なところで顔をあわせたことに驚いていたが、すぐに思い出したように綾子の体を助け起こした。

「おーい美綴さーん? だいじょーぶー……むにゃ?」

 ぐったりと(そして何故か紅潮している)綾子の頬をぺしぺしと叩きながら言って、詩音は肌蹴た制服から覗く胸元に、二つの赤く小さい疵を見つける。指を伸ばして触れると、指先にほんの僅かだが、どろりとした生暖かい液体が付着した。

「吸血種かなんかかね? あのヒト」

 綾子を抱かかえた詩音は、セイバーと一進一退の攻防を繰り広げる紫の美しい髪をもつ敵サーヴァントを見た。頭の中で、はて、英霊になるよーな吸血種なんておったかいな? と自問する。ぱっとは浮かんでこない。そもそも吸血種って霊長の守護者である英霊になれるんか? いやいや反英雄って可能性もあるか。

 頭を捻りつつある詩音だが、判ったこともある。

 あの敵は、不足気味である魔力を補うために綾子を襲った。つまるところ、彼女のマスターは彼女に対して充分な魔力を供給できていない。

 詩音は判断を下した。

 いま、セイバーとやりあっている敵はあれが精一杯。まぁ、隠し玉の一つや二つはあるかも知れないが――

 そんな詩音の判断を肯定するかのように、戦況に変化が生じていた。優越する速度を活かし、セイバーを翻弄していた敵サーヴァントだったが、次第に旗色が悪くなっている。干戈を交えるうちに、その動きのパターンをセイバーに把握されてきたのだ。

「くっ――――」

 不可視の剣を辛うじて交わした敵が、呻くようにして声を漏らした。黒い、体のラインが出る意匠の服、その腹部が切り裂かれ、そこから覗く白い肌に血が滲んでいた。次いで斬撃を見舞おうとするセイバーから大きく距離をとり、地を這う蛇を思わせる腰を低く落とした体勢をとる。息が上がっていた。整った顔には、紛れも無い焦燥が浮かんでいた。

「観念するといい」

 誰憚ることのない戦場の支配者としての風格を滲ませながら、セイバーが言った。敵とは対照的に、まったく息が上がっていない。彼女は、不可視の剣、その切先を敵に向け、告げる。

「非力を補うための、速度を活かした戦術――見事でした。だが、それももう見切った。もはや勝敗は決した。貴女も英霊となるほどの者ならば潔く――」

 だが、その言葉を、セイバーは相手に最後まで聞かせることが出来なかった。形勢不利と見た相手は、戦闘が僅かな中断を見せたこの隙に、その速度を活かし一気に戦線を離脱したのだ。有体に言ってしまうと、尻に帆かけて逃げ出した、といったところだ。確かに、潔い判断ではある。

 もっとも、その潔さを発揮されたセイバーは、その判断の的確さに感嘆の念を抱きつつも、けして愉快な気持ちになれなかった。当然だろう。勝ち誇って隙を見せた瞬間に、得られて当然の勝利を取りこぼしたのだ。面子もなにもあったものではない。加えて言えば、いくらその内心における個人的な宣誓とはいえ、主のために全力を振るうと誓った直後の戦闘でこの有様である。愉快な気持ちになれないのも当然だった。顔を顰めたセイバーは、敵の見事な逃げっぷりに感心している詩音に短く告げた。

「追います」

「追いますって、セイバー――うわ、もう行ってるし」追いつけんだろう、ありゃ、と言う前に駆け出したセイバーに、詩音は呆れたように溜息。遠ざかる背に声をかける。「とりあえず、あんまし深追いしないでいいからねー? てきとーなとこで戻っておいでー」

 承知、という声が風に乗って聞こえてきたのを確認した詩音は、やれやれとでも言いたそうな感じで肩を竦めた。それから、あたりの様子を見渡す。もう一度肩を竦める。

「しかし、まぁ、派手にやったもんね、こりゃ」

 確かに、路地は控え目に表現しても随分と派手な有様に成り果てていた。アスファルトはあちらこちらで捲りかえり、あるいは陥没し、路地を形成するビルのコンクリート製の壁面も、いたるところで砕け、あたりに瓦礫が散乱している。事情を知らぬ者が見たら戦争でも起こったのかと錯覚してしまうほどだ。人外の存在がぶつかりあった明確な証拠が、そこかしらに残されていた。

「さて、猪突モーシンなセイバーちんが帰ってくるまで、美綴さんの看病でもしとくかなぁ」

 破損した物体を修復する魔術など使えるはずもない詩音は、あたりの惨状の始末を早々に諦め、とりあえず横に寝かせている美綴の元に足を運んだ。はだけた胸元に顔をよせる。

「むー、とりあえず面倒なことにはなってないみたいだね」

 魔力の残滓を嗅ぎ取った詩音は、綾子が死徒だの死者だのという面倒な存在になっていないことを確かめて安堵した。もっとも、敵サーヴァントは吸血種だというわけでもなさそうであるから、杞憂だったかもしれない。

「いや、しかし」

 とりあえず、精気を吸われて衰弱はしているが、致命的なダメージを負っているわけではないと判断した詩音は、安堵の溜息を漏らしたあとで、肌蹴た綾子の胸元をまじまじと見て呟いた。

「目の毒だわ、こりゃ」

 ホントに精気吸われただけかしらん? 詩音が思わずそう思ってしまうほど、綾子の姿は艶っぽいものだった。小さな疵の残る胸元は上気して桜色に染まっており、熱い吐息を吐くたびに艶かしく上下している。襲われたあと、というよりも情事のあとだと言った方がしっくりくるような有様だ。

「妙な気分にでもなりそーだよ、まったく」

 溜息まじりにそう言った詩音は、顔見知りの艶っぽい姿に頬を紅くそめながら、綾子の胸元に手を伸ばした。別に、いかがわしい真似をするためではない。肌蹴た着衣を直そうと思ったのだ。だが、詩音が綾子の着衣に手をかけた瞬間、

「その娘から離れなさい」

 怒気を含んだ声と、人影が上から降ってきた。


 あちゃあ。

 詩音は思わず顔を手で覆いたくなるのを懸命に堪えた。肌蹴た綾子の胸元に手を伸ばしかけた彼女の視線、その先には体中から猛然と溢れ出る怒気を隠そうともしないクラスメート――遠坂凛が立っていた。その背後には、隙の無い表情でこちらを窺う、あの夜の校庭で見かけた赤いサーヴァントが立っている。

 うっわ、もしかして詩音ちんってば大ピンチ? やっばいなー。おーい、セイバーちんやーい。早く帰ってきてくれんかー? ねー聞こえてるセイバー聞こえてるんだったら返事をしてちょーだいなっていうかマスター大ピンチでもれなくマストダイな雰囲気だから聞こえなくても返事して。

 ――などと微妙に焦りから混乱しかけた思考で考えつつ、詩音は可能な限り何気ない調子で怒る冬木のセカンドオーナーに話し掛けた。対人関係の基本は会話から。

「――や、遠坂さん、こんばんは。奇遇だね?」よーし、さりげないさりげないだいじょうぶだいじょうぶ、と心の中で言いながら詩音は言葉を続ける。「っと、そちらのヒトは? あ、もしかして遠坂さんの良いヒトだったりするのかな? と、いうことはデートだったり? うわ、遠坂さんもすみにおけな――」

「その娘から離れなさい」

 ――うわ、聞く耳もっちゃいないよ遠坂さん。出来うる限りフレンドリーな態度で話し掛けたつもりの詩音だったが、彼女と対峙するツインテールの女魔術師は、まったくといっていいほど聞く耳をもっていなかった。詩音は思った。くそー、遠坂さんも見回りの最中だったんだろーなー。で、うちのセイバーちんとあのムカツク体型のサーヴァントの戦闘を察知してここに飛んできた、と。うわ、タイミング悪っ!?

「早く離れなさいって――」

 困ったような笑顔で止まっている詩音に業を煮やしたのか、凛はポケットに忍ばせた手を微かに動かしながら言う。無論、手には彼女のとっておきの宝石が握られている。よくよく考えれば、魔術刻印を使って発動するガントのほうが手間もなければ経済的におとくなのだが、頭に血が昇っている凛は、そこまで気が回っていない。

「わ、わ!? 離れる、離れるって」

 目の前の級友から剣呑な気配を感じた詩音は慌てたように綾子の傍から遠退いた。もっとも、いざとなれば体を瞬時に強化して、凛が宝石に蓄えられた魔力を解放するなりそれを触媒に魔術を行使するよりも早く彼女を屠ることが出来るのだが、顔見知りの相手(あくまで顔を知っている、という程度の知り合いではあるが)を無闇矢鱈に血祭りにあげる習慣もなければ趣味もない詩音は、大人しく凛のいうことを聞いた。加えて言うなら、たとえ凛の不意をついて彼女を強襲したとしても、その背後で隙の無い様子でこちらを窺っている赤いサーヴァントに阻止されるだろう。そして戦闘。たぶん、敗北。碌なことにはならない。

「つか、遠坂さんは何を怒ってるのん?」いけしゃあしゃあ、といった調子で詩音は小首をかしげて見せた。「私は、ここで倒れてる美綴さんを見かけて介抱しようとしてたんだけど」

「――へぇ」

 詩音の嘘と真実が7:3ぐらいの台詞に、凛は軽く眉を上げて見せた。と、いっても詩音の言葉をそのまま信じたというわけではなさそうだ。相変わらず、ポケットの中では宝石を握っている。

「じゃあ、この有様は……衛宮さんのせいじゃないっていうのね?」

「遠坂さん」詩音は、心外だ、とでもいうような表情を浮かべて応えた。「私が手榴弾だのなんだのを持ち歩いてるよーに見えるん? 素手でどーやってこんなことできるのさ?」

 さーて信じるかな? 詩音は背中に嫌な汗をだらだらと流しながら思った。もっとも、顔にはそんな気配は微塵も浮かべていない。かつては義父に、そして今では姉から叩き込まれている交渉術(前者は戦闘時の、という但し書きがつく)の本領発揮である。

 それにしても、と詩音は思った。あの赤いの、私の名字を聞いた途端妙な顔してるけどどーしたんじゃろか?

「そうね」

 今にも嘲笑い出しそうな表情で、凛は口を開いた。騙されないわよ、という気持ちがありありと伝わってくる表情だ。

「流石に素手じゃ難しいでしょうね。でも――サーヴァントならどうかしら?」

 ここで詩音が、その単語にぴくりとでも反応したら――凛は即座にポケットの中の宝石を詩音に叩き込むつもりだったのだろう。だが、

「ほへ? サーヴァント? なにそれ?」

 詩音は、何言ってるのさ、遠坂さん? とでも言い出しそうな表情で首を傾げてみせた。実のところ、自分でもこうまですっ呆けられるとは思っていないなかった。背中を流れる汗が一気にその量を増す。

「シラをきろうっていうの?」

「いや、シラをきるもなにも」詩音は意識的に作り出した困惑の表情を顔に浮かべて言う。「遠坂さんの言ってることがさっぱりだよ。サーヴァントって、あれ? 召使かなんか?」

 むぅ、と凛が小さな呻き声を漏らした。状況を見る限り、詩音は限りなくクロだ。だが、その黒に近い灰色の彼女が示している態度は、凛に彼女はシロ――聖杯戦争とは無関係だと思わせようとしている。むろん、実際は真っ黒なのだが。

 凛は思った。どうしたものか。友人――美綴綾子が倒れているのを見て、思わず喧嘩を吹っかけるような真似をしてしまったが、勇み足だったのだろうか。どこまでも困惑そのものの表情でこちらを窺っている、さして親しいというわけではない級友の顔を見ると、そうした思いが一段と強まる。

 凛が、膠着した状況と気まずい雰囲気に耐えかね、何かを言おうとした瞬間。それまで口を噤んでいた赤い弓兵が口を開く。

「凛、何を悩んでいるのだ」彼は言った。「気になるのならば、多少痛めつけて本当のことが言いたくなるようにすればいい」

 なに、間違いだったらだったで適当に手当てして記憶をけしてしまえば問題あるまい。赤い弓兵は、自分の発した言葉の内容に、主が唖然とするのにもかまわずそう言い放った。

「ちょ――」

 鼻持ちなら無い合理主義者じみたところがあるとは知っていたが、ここ数日のつきあいで、けして悪人ではないと考え始めていた自分の従僕が、酷薄そのものの言葉を放ったことに、凛は言葉を失った。一方、アーチャーは、そんな主の反応を鼻で笑いながら更に言葉を続ける。

「どうした、凛? まさかキミはこの聖杯戦争という殺し合いで奇麗事を持ち出すのではないだろうな? いみじくも戦争と冠されたイヴェントだ。うてる手はすべてうつ。そのぐらいの気構えがなければやってはいけまい。それともキミのこの戦いにかける気持ちというのはその程度のものなのか?」

 ――このヤロウ。詩音は顔には出さず毒づいた。折角遠坂さんをなんとかだまくらかして穏便にすませられそうだったってぇのになんて事言い出すのよ、チクショウ。なんか校庭で見たときからいけすかない野郎だとは思ってたけどコイツ最悪だわ。あの変態青タイツのが兆倍マシじゃないの。くっそーオマエの私ランキングはあのむかつくボディコンサーヴァントを抜いてぶっちぎりの最下位だ。死んじまえこのトマト野郎。

 内心で罵詈雑言の限りをつくしてアーチャ―を罵った詩音は、ちらりとツインテールの級友を見て、

「――――」

 思わず冒涜的な言葉を漏らしそうになり、それを辛うじて堪えた。詩音が見る限り、この少女魔術師は、自分の従僕の進言に心動かされているようだ。いや、心動かされている、というよりも、挑発じみた台詞に反応しかけている、といったほうが正しいかもしれない。

 詩音は思った。

 最悪だ。考えうる限り最悪だ。状況的には、あのランサーとやりあった時――自分のサーヴァントを伴わず、敵サーヴァントと向かい合った時と酷似しているが、今回はもっと悪い。なにせ、今回は相手側に敵のマスターがいる。伝え聞く風聞を信じるのなら、遠坂凛の魔術師としての力量は天才と呼ばれてなんら遜色しないものだという。“生身”でサーヴァントとやりあうという時点で勝ち目が限りなくゼロに近いというのに、そんな大魔術師の卵まで向こうに回して戦闘など出来るものではない。

 さて、遠坂さんはどうでるか――

 詩音は、もし遠坂凛があの弓兵の口車に乗ったときのことを考え、対峙する相手に気付かれないように手馴れた武器である短剣を“準備”する。そして、しばし逡巡していた凛がその双眸に何らかの決意を浮かべ、口を開こうとした瞬間、

「私の――」

 天空から声が降ってきた。

「――マスターから離れてもらおうッッ!!」

 セイバーだった。主人の危地を察知して追撃を打ち切ったセイバーが駆けつけてきたのだ。ビルの上から撃ち出すようにして飛び降りたセイバーが、自身の脚力に重力のもたらす加速度を加えて、敵――凛とアーチャーにその勢いのままに剣を叩きつける。

「――――ッッ!!」

 無論、黙ってそれを喰らう凛とアーチャーではない。アーチャーが凛を脇に抱えるや否や、その場を飛び退く。砲弾が着弾したような音と土煙が巻き起こり、

「セイバー、ナイスッッ!!」

 それを好機と見た詩音が“準備”していた短剣を投擲する。が、アーチャーはあっさりとその攻撃に反応し、何らかの迎撃を行おうと構えをとり――

 ――短剣が爆ぜた。

 夜の闇に、紅い花が咲く。無論のこと、その花弁は火焔で構成されている。


「こ、の――」

 してやられた。凛は臍を噛むような思いで、そう思った。あの無害を装った演技にまんまといっぱい食わされた。やっぱり、彼女はマスターだった。くそ、くそ――

 そして、思ったほどの威力はなかった焔と煙が消え去ったとき、凛は地団太を踏みたくなるような思いに囚われる。


「ふひー」詩音は額を拭いながら言った。「めっちゃめちゃ焦ったぁー」

 彼女は、セイバーの腕の中で冷汗を流しながら言う。自分で逃げるよりも、よほど早くあの場を逃げ出せるので、セイバーに抱えてもらっているのだった。ちなみに、お姫様抱っこの体勢である。

「何故、戦わなかったのですか?」

 気持ちよくなるような逃げっぷりを見せた自分の主に、セイバーは夜の大気を切り裂くようにして駆け抜けながら問う。その声には、不満がありありと滲んでいる。

「いや、まぁ、セイバーちんの気持ちも判るんだけどね。やっぱ不規遭遇戦は駄目だって。いらん被害が出かねないし」

「理屈は判りますが」

 戦いにおいて、期せずして発生した戦闘ほど被害を誘発するものはない。セイバーもそのことは痛いほど理解しているので、詩音の言っていることは判る。が、

「それだけですか?」

「あー、うー、いやーそのーなんともうしますか」

 詩音はバツの悪そうな顔で言った。

「その、そろそろおねむの時間――あ、やめ!? ちょ、セイバーこっからおちたら死んじゃう! 死んじゃうから!!」

「詩音なら大丈夫でしょう」

「酷っ!?」

 一気に気の抜けた雰囲気になった会話を交わしながら詩音は思った。うーん、もう遠坂さんにバレちゃったかぁ。めんどーだなー。うーん。でも、それより面倒なのは。

「――姉さんがこのこと知ったら怒るかなぁ」

 どうか折檻だけはされませんよーに。詩音は、何時の間にか雲の晴れた夜空に輝く月に祈るようにして、そう呟いた。












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